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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

日本統一のために人材を登用した木戸孝允

前回の記事では大久保利通西園寺公望にむかって「卿等の時代になれば藩閥の問題が政治に少なからず面倒を惹起することであろう」と注意を与えていたことを書いたが、その大久保自身も藩閥の弊害を最小限にすべく尽力していたと感じられる。それはこれまでに引用してきた山本権兵衛(伊藤の談話を含め)大隈重信の談話、あるいは畏友大西郷および同郷のものと対立し征韓論を破裂させたことを観ても明らかである。

なにより大久保の腹心ともいうべき前島密は(薩摩とは縁故があったとはいえ)長岡出身の旧幕臣であり、両翼伊藤博文大隈重信がそれぞれ長州、佐賀の出身であることをみても、人材を用いるに公平であることを証明している。


しかし、それ以上に熱心な人材を登用をおこない、薩長の天下とならないように苦心していたのが木戸孝允だった。江藤新平陸奥宗光、河野敏鎌、さらには後年大久保の両翼となった二人すら――木戸の義弟来原良蔵によって見出された伊藤博文は言うまでもないが、当初は大久保に排斥されつつあった大隈にしても――木戸によって抜擢され、あるいは庇護を受けていた。これは人士を愛するという木戸元来の性質と、万国と対峙できる国家にするという大見識によるものであった。

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大隈が語る「木戸の精神」

大隈重信は、第一の政治家として木戸孝允を挙げている。最も感心したことを「長州出身なるに拘わらず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられた一事」だといい、木戸はつねに「もし二藩の人をして跋扈せしめたならば、幕府の執政と異なったことは無い、既に三百藩を廃して四民平等となしたる以上は、教育を進めて人文を開き、以て立憲国になさなければならぬ」と口にしていたと『大隈伯百話』で述べている。

つまり木戸が急務としてことは倒幕勢力による政府を創設することではなく、立憲国として統一された政府とすることにあった。『木戸松菊公逸話:史実参照』では以下のとおり語っている。

(木戸)公の精神は単に皇室の難に趨いて、一時の忠節を竭(つ)くすにあらで、国家を根本から一洗し、真正の帝権の下にあって、尽瘁せんという理想を抱懐されていた。そこで毛利氏も島津氏も徳川氏も眼中になく、公の精神は国家の統一を籌図するというのが基礎であった。しかるに、その偉大なる精神を諒解し得ざるものが往々あって、長州の内部にも、公を喜ばないものがあった。公は毛利敬親父子に対しても、熱烈なる同情を有しておられたが、一部の頑固党には、長州藩が公のために却って崩潰せられたかの如き考えをしていたものもあった。これらがそもそも公を誤解せる原因であった。その一例を挙ぐれば、慶応二年に幕府が二度の征伐をしたときに、長州は小笠原長行の兵を破って小倉を占領した。公がその占領地を奉還せんとするに反対して、これを争うたものがあった。公は大いに憤慨して、何のために王政復古をしたのか、将来日本は、世界万国に対峙して行かねばならぬ、それに内輪で瑣細なことを争うは、何分にも了解しがたいというのが、公の意見であった。そこで維新の初において、普通の人々は公の真実なる精神を了解し得なかったのである。長州内部のものさえ、公に疑念を抱くものがあるので、薩摩は無論のことであった。公においては、薩摩は真心忠節を竭すのであるか、あるいは自己の権力を拡張せんとするのではないか、あるいは覇権を掌握せんとするのではないかということを憂慮されたのが、その身体を衰弱にされた基をなした。その不懣を時々吾輩に語り話されたことがある。これを以て見ても、公は一点の私欲なくして熱烈なる忠実心なることを、證明するに足ると思うのである。そこでその忠誠なる結果は、ついに諸侯の版籍奉還となった。この版籍奉還にも吾々も働いたが、公が中心であった。公はつねに余程私共の心を愛せられ、ときには反抗したこともあったが、国家を思う忠義の心からして、吾輩のごとき一介の青年でも、決して棄てられなかったのである。(中略)
 木戸公は第一に王政の下に国家の統一を籌図し、薩摩でも長州でもいかなる勤王の人でも、藩政を全廃して国家を統一しなければ、善政は施せない。まして将来は世界各国を相手にするのであるから、国家の統一が急務である。これが為には、決して徳川氏に対して、島津氏や毛利氏が頭を下ぐることはないというのが、公の根本の精神であった。その意趣から徳川幕府倒滅の次には、版籍奉還も起こり、次にはどうしても西洋の知識の進歩に対抗していかねばならぬことになる。西洋の知識ばかりでなく、道徳も進まねばならぬ。だからどこまでも、日本を文明に導かねばならぬ。それで進歩的に行かねばならないので、ついに公は洋行して、米国の憲法や政治教育などを研究し、一生懸命にこれを調査されたのである。


これによって、木戸の眼光は世界にむかっており、その志は万国に対峙できる国家を築くことにあったとわかる。それゆえ出自に拘らず人材を抜擢し、藩閥政治により門戸を閉ざすことを遺憾としていたのだろう。

河瀬秀治

宮津藩出身の河瀬秀治*1は、木戸や大久保が人材を登用するに公平であったとしてつぎのように語っている。

今から思うと、あの頃の国家の難しい事務その他百般の国事がうまくいったのは、全く木戸と大久保の二人(ににん)があったからだと思う。あの二人の公明正大な点は世人の想像以上であった。二人ともに考えていたことは、御維新というものが徳川に代うるに薩長を以てしたものに過ぎぬと世間が思いはせぬか、そう思わしてはならないという点であった。こういう疑いを起こさしてはならぬというので、役人を用うるにも公明をもっぱらにした。現にその頃の大丞では長州人は林友幸一人であった。
 まア、木戸と大久保この二人の公明正大で、万事は円満にいったのだ。――『大久保利通 

 

人材を登庸するにあたっても、この両公が国務卿に列せらる時には、薩長のみに偏せず、佐賀でも土佐でも、また吾々のごとき局外の者でも採用なって、随分注意されたものである。――『木戸松菊公逸話:史実参照』

「吾々のごとき局外の者」と述べているように、宮津藩は鳥羽伏見の戦いでは幕府側につき、朝敵となっていた。その後藩論をまとめて哀訴歎願したのが河瀬であり、それから広沢真臣に知られ、木戸との縁故ができたという。彼が用いられたこともまた木戸がいかに公平であったかを裏付けている。

薩摩の横暴に憤慨する

このように公平であったからこそ、薩人の横暴さに憤慨し、大久保に論難を浴びせることもあった。

 

あるとき三浦悟樓が官員録を繙いて、海軍、警視庁、さらには北海道の官員まで薩摩出身者で固められていることを木戸に示すと、「なるほど、これは酷い」と木戸も驚き、翌朝には大久保を訪問し厳談したということである。(『観樹将軍縦横談』『木戸松菊公逸話』)

 

また明治六年の政変以降、鹿児島は独立国の観があり、中央政府の施政に従わず、国家統一の障壁となっていた。この件について明治十年一月に大久保宅を訪れ、七時間にも及ぶ議論をしている。

 

 彼が大久保を論難するとき、多少なりとも薩摩への敵意があったとおもわれるが、しかしその根源となったのは日本を統一し世界と対峙できる国家にするという一念であっただろう。

*1:宮津藩士にして群馬や熊谷の県令をつとめ、木戸邸を訪問することが多かった(そのため長州出身だと思われることもあったらしい)。妻は、木戸孝允夫人の妹分だった。