hikaze

幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

2015-10-01から1ヶ月間の記事一覧

大山巌元帥の逸話——西村文則著『大山元帥』

西村文則氏の『大山元帥』に載せられている逸話から、現代表記に書き換え、一部要約しながら紹介したい。 元帥の散歩振り 元帥は非常に散歩が好きであった。まず午前中は、自邸の木立深き間を約一時(いっとき)もあるいて、午後は茶縞背広服を着て、裏門か…

伊藤博文に子分が少なかった理由——金子堅太郎談

伊藤博文に子分といえる存在が少なかったことは同時代の政治家が証言しているところである。 山縣有朋は、「伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかった」と評し、西園寺公望は「自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われ…

大久保サンは専制主義の人ではない——伊藤博文談

前回の記事で、伊藤博文が「大久保公は専制主義の人ではない」と述べていたことに触れた。そこで今回は、『甲東逸話(勝田孫弥編)』『伊藤博文直話』などから、伊藤博文が語る立憲政治における大久保公の実像に迫りたい。 世間の大久保観に対する反論 伊藤…

陸奥宗光を宥した大久保利通の大度量

以前の記事で触れたように、西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義の木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家…

松方正義に死を勧めた大久保利通

明治2年頃、大久保公が松方正義の首を助けたと前回の記事で紹介したが、明治6年にはその松方正義に対して死を勧めている。一見すると正反対の態度であるが、どちらも大久保公の政治信条に反したものではなく、公自身がいかなる態度で政局に臨んでいたかが…

松方正義の首を助けた大久保利通

松方正義の述懐によれば、廃藩置県の建議書を大久保利通に見せたところ、「(薩人に)この書を見せるな、また決してこれを口にするなかれ、このことがわかると、あなたが廃藩置県を建議したというて、首を刎ねられるぞ」と注意されたという。 後年、この大久…

幕末の名宰相阿部正弘の言行

幕末の大宰相阿部正弘の言行を『阿部正弘事績』から抜粋し、現代文に改めて紹介。 風采 当時阿部正弘に接した家臣が、その風采について次のように記している。 「身長は中背にして肥満し、色白く、眼涼やかに、髪黒く麗しく、面相つねに春のごとく賑わしく、…

阿部正弘の死去とその影響

阿部は安政4年4月頃から体に異常を感じはじめ、5月には胸が痛み、そして6月17日ついに病没した。享年39歳であった。 このとき鹿児島に帰国中だった島津斉彬は阿部の訃報に接し、「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」と歎息したと伝えられ…

阿部正弘と幕薩縁談

前回の記事で触れたように、将軍家と島津家の縁談が持ち上がったとき、大奥側では側室として迎えるつもりだった。それに反対したのが阿部正弘で、側室という大奥側の意見を取り消させ、無事に篤姫を正室として輿入れさせた。この一件は阿部正弘の事績におい…

篤姫入輿と将軍継嗣問題

徳富蘇峰は幕府と薩摩の縁談が持ち上がったことは将軍継嗣問題のためでなかったことを看破していた。そして芳即正氏が安政元年頃に書かれた「御一条初発より之大意」をみつけたことでこの縁談が嘉永3年に持ち上がっていたことが判明し、それによりこの縁談…