2015-08-01から1ヶ月間の記事一覧
橋本左内と同年に生まれ、ともに藩学明道館の幹事を務めた堤正誼が『橋本左内言行録』で談話を述べているので要約して紹介する。 橋本左内の身長と容貌 橋本左内の身長は五尺(151.1㎝)で色が白く痩せて優しい婦人のような容姿だったことはよく知られている…
中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、当時その名を知らぬ者がいない存在だった。 白柄朱鞘の和泉守兼定を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放つ。それにくわえて「人斬り半次郎…
徳川慶喜が大政奉還したことにより、王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が樹立された。 この新政府にあって徳川氏の立場を弁護しつづけた一人が雲井龍雄であった。徳川氏が朝敵とみなされていることに憤慨した雲井は、上書して冤を訴えるも聞き容れら…
明治時代に殖産興業のために尽力した佐々木長淳(ちょうじゅん/ながあつ)は、幼いころから橋本左内と親交があった。長淳が78歳のときに語った橋本左内の思い出が『橋本左内言行録』に載せられている。左内の人物像を知る貴重な証言なのでここに要約して…
安政三年、西郷隆盛は本格的に重用されはじめた。 七月九日には斉彬から書状を託され水戸へむかっている。これは徳川斉昭への書簡を届けるだけではなく、書面だけでは伝えきれない秘事を水戸藩の重臣に授けるきわめて重要な任務だった。 徳川斉昭の活路を開…
佐賀の乱が起こった明治7年、山岡鉄舟は密命を帯びて鹿児島を訪れている。このとき西郷隆盛と語りあい旧情をあたため、昔と変わらず高潔な志を宿していることを知り、西郷が政府打倒など考えていないと確信した。 その三年後、事西郷の志と違って西南戦争が…
鹿児島出身であり福沢諭吉に親炙した山名次郎は、国民協会を創設したころの西郷従道とともに各地を歩き、その人柄を深く観察することができたと『偉人秘話』で述べている。 西郷従道の人柄 元来(従道)侯は、容貌魁偉躯幹雄大にして、つねに顔色艶々しく、…
ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を翻訳したことで知られている中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。 中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。 中江の熱意 土佐藩の足軽であった中江は、…
島津斉彬はかつて、「西郷だけは薩国貴重の大宝である。しかし独立の気象があるので彼を使えるのは私だけだろう」と語っていた。 後年、島津久光が藩の権力を握り率兵上京を計画したとき、西郷が反対したことを思いあわせれば、斉彬は西郷の性質を看破してい…
「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」 という福地の大久保評は、Wikipediaにも載っているので、よく知られているとおもう。しかし前述の文は大久保評の一部分でしかなく、その後に人間的な温かさについて触れていることはあまり知られてい…
本書に序文を寄せている夏目漱石は、池辺三山との出会いを回想して、西郷のように感じたと書いている。 池辺君の名はその前から承知して知っていたが、顔を見るのはその時が始めてなので、どんな風采のどんな恰好の人かまるで心得なかったが、出て面接して見…
新渡戸稲造が台湾に奉職することになったのは、児玉源太郎(台湾総督)、後藤新平(民政長官)に要望されたからだった。 新渡戸は二人との面識はなく、二人が要望した理由もわからなかった。 後藤新平はおなじ岩手出身とはいえ彼は旧仙台藩で、新渡戸は旧南…