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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

島津斉彬の大度に感銘をうけた大久保利通

島津斉彬は、幕末随一の英君である。西郷隆盛が斉彬に薫陶をうけたことはよく知られている。大久保利通もまた斉彬の感銘をうけ、大人物となった一人だった。 島津斉彬の宏量大度 島津斉彬が薩摩藩主になったのは嘉永4年(1851)。斉彬が43歳、大久保…

島津斉彬を藩主とするために計画を練っていた大久保利通

前回、書いたとおり謹慎中の大久保は、表向きは固く門を閉ざしていたが、秘密裡に有志者と交流していた。彼は、君側の奸をのぞき、英明なる斉彬を藩主に立てようと暗躍していたのである。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000">高崎くずれの頃の大久保利通の苦心 - 人物言行ログ</a> 精忠組の誕生 こ…

高崎くずれの頃の大久保利通の苦心

大久保利通が21歳(このころ正助と名乗っていた)のとき、父・大久保利世が「高崎くずれ(お由羅騒動)」に連座して、喜界島に遠島。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職している。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142">大久保利通の父・大久保利世について - 人物言行</a>…

大久保利通の外祖父・皆吉鳳徳は日本初の西洋式帆船を建造した奇傑

大久保利通の母・ふく子の実家は、皆吉氏であり、代々有為の人物を輩出していた。なかでも利通の外祖父にあたる皆吉鳳徳(ほうとく)は、奇傑としてしられ、身体長大にしてあたかも力士を見るがごとく偉丈夫だった。(『大久保利通伝』) 伊呂波丸建造 医者…

大久保利通の父・大久保利世について

『大久保利通伝』によれば利通の父、大久保次右衛門利世(としよ:号は子老)は体格は大きいわけではないがかなりの肥満体で貫禄があった(意訳)、というように書かれている。 大久保利通は身長が高かく痩せていけれど、これは母に似たものらしい。 無学の…

禅を修業し胆力を鍛えた大久保利通『難来る、難能く我を鍛える』

吉井友実の叔父、無参禅師(むさんぜんじ)は、薩摩における有名な高徳の禅僧だった。士族を召し上げられて出家したと伝えられる。 大久保利世(利通の父)は、無参禅師について禅を学び、親しく交わっていた。こうした関係から、自然と大久保利通も参禅する…

児玉源太郎の部下への思いやり

児玉源太郎がまだ連隊長だったころ、炊事係を怒鳴り散らしたことがある。 「空腹で疲労がなおるものではない。何をぐずぐずしている」 これは演習を終えた部下の身体のことをかんがえて叱ったものである。彼は普段から、「明日の演習のために、すみやかに宿…

中村敬宇の根気

中村敬宇(正直)といえば『西国立志編 』(サミュエル・スマイルズの『Self Help』の邦訳)の一文、「天は自ら助くる者を助く」などで知られる。また彼の『敬天愛人説』が西郷隆盛に影響を与えたともいわれている。 彼は慶応二年に林董らと英国へ留学した。…

才が鈍らなかった陸奥宗光と児玉源太郎

石黒忠悳は、児玉源太郎伯は非凡の人であったと回想して、つぎのように語っている。 真にこの人は偉い人だと思う人は滅多にないが、児玉伯は実にその人です。人はよほど注意せぬと地位が上るにつれて才能が減ずる。私の知っている人で大臣などになったのも少…

座牢でイカを釣った西郷隆盛

西郷隆盛が沖永良部島の座牢にいたころ、釣り具の手入れをしていたことがある。それを見ていた土持政照(間切横目:看守)は、見馴れない道具があったので、「どのように用いる釣り具か」と西郷に訊いた。 「座敷にいながらイカが釣れる不思議な道具である」…

王陽明の逸話と格言

photo credit: Qiandaohu (1000 Islands Lake - Zheijiang Province, China) via photopin (license) 落第したときに仲間を励ます 25歳のとき、陽明は2度目の進士の試験をうけて落第した。このとき落第したのを恥じているものがいた。陽明は彼らを慰める…

高杉晋作の弟子になった田中光顕

田中光顕は、高杉晋作に弟子入りしている。その経緯と師高杉からの教訓が『維新風雲回顧録』で述べられているので紹介したい。 土佐出身の田中光顕はどうして高杉晋作の弟子になったのか? 奇兵隊を創設し高杉晋作が陸海軍総督ともいうべき立場だったとき、…

児孫のために美田を買わず

児孫のために美田を買わず―― この詩句は西郷の清廉さを表現しただけではなく、自らを戒める言葉でもあり、「この言葉に違えるようなら、我は言行一致せぬものの譏(そし)りを受くるも可である」と西郷は語っていた。 つぎに示すエピソードは、この詩が彼の…

禁門の変で自刃した久坂玄瑞の悔い

久坂玄瑞は、諌死者について念入りに研究していた。著名な人物はもちろんのこと、ほとんど名の知られていない人物についても、敬意を払って記事を読み、事細かく記録していた。 生死を顧みず、忠義のために諫言する。そうした人物に薫陶を受けていた久坂は、…