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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

2015-01-01から1年間の記事一覧

大久保利通と西郷従道——西郷清子談

『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通と西郷従道の関係は次のとおりだったという。 西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装…

大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断

古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。 そこで安間村*1…

篠原隊の不敬事件——文武硬軟二派の暗流

明治2年の10月24日、昭憲皇太后が御着京。翌日、弾正台から薩摩藩邸へ、「御用これ有りにつき、即時出頭せよ」と命令が下った。 薩摩藩邸御留守居副役の有馬藤太が出頭すると、大巡察佐久間秀脩(ひでなが)より、「この度、皇后陛下が鹿児島の旧装飾屋…

村田新八と仏罰——滴水和尚の予言

明治10年、山岡鉄舟は天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。 鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう…

山岡鉄舟の情欲修行

いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。 …

西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとし…

自由民権派に対する山岡鉄舟の態度——人の追従すること能わざる卓見と遠識

山岡鉄舟の門下であった佐倉達山氏は『徳川の三舟』という私刊本を出版している。同書で氏は、鉄舟の豪傑振り、剣、禅、書に精通していたことを述べたあと、「斯く叙来ると、彼は単に精力絶倫の一鐵漢にして、政治の得失などには無関心かの如く思わはるるが…

山岡鉄舟と清河八郎の首級

文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1 清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。 周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検…

渡辺国武の大久保利通観

無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。 大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は…

筆を執ることを嫌った大隈重信

大隈重信が筆を執らなかった理由は諸説ある——字が下手であるためだったとか、それほど下手ではなかったが席次の低いものに能書きがいたためだったとか——が、とにかく、5年や10年その邸宅に出入りした者ですら、大隈が筆を執るところは見れなかったといわ…

山岡鉄舟と清河八郎の問答——『某人傑と問答始末』

山岡鉄舟居士は『某人傑と問答始末』と題する自記を残している。この「某人傑」について『幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた 』では佐久間象山だと書かれていて、それにならって私も過去に記事を書いたのであるが、『高士山岡鉄舟居士』によれば「某人…

26杯のお汁粉を平らげた桐野利秋

幕末の頃、つまり桐野利秋がまだ中村半次郎と名乗っていたころの話。 photo credit: 花見こもち, ぎおん特屋, 原宿 via photopin (license) 京都四條畷の曙で、お汁粉26杯を平らげたことがあった。それに感心した店主は、 「手前ども開店以来いく年月のあ…

有馬藤太と桐野利秋の関係

近藤勇を降参させ、助命を訴えたことで知られる有馬藤太。彼は、桐野利秋と大の親友であり、その関係を次のように語っている。 桐野と私は最も親しかった。そして西郷先生は桐野と私を最も可愛がられた。いかなる秘密な事件でも大抵は私共二人だけには御知ら…

伊藤博文の私人としての一面——西園寺公望談

前回に引き続いて『園公秘話』から。今回は西園寺公望が見た、伊藤のプライベートの一面や逸話などを紹介したい。 奮発 西園寺は、伊藤は必要なときには勉強もしたが「普段は決してしないマア偉い勉強家とは思いません」と述べ、「個人としてつきあって見ま…

伊藤博文の政治家としての一面——西園寺公望談

『園公秘話』の付録として掲載されている「西園寺公の伊藤公観」から。これは大正3年に西園寺公望が、高橋義雄(茶人・高橋箒庵)に語ったことを速記したもので、それから20年以上秘蔵されていたが、遺言により西園寺を研究していた安藤徳器に托されたも…

大山巌元帥の逸話——西村文則著『大山元帥』

西村文則氏の『大山元帥』に載せられている逸話から、現代表記に書き換え、一部要約しながら紹介したい。 元帥の散歩振り 元帥は非常に散歩が好きであった。まず午前中は、自邸の木立深き間を約一時(いっとき)もあるいて、午後は茶縞背広服を着て、裏門か…

伊藤博文に子分が少なかった理由——金子堅太郎談

伊藤博文に子分といえる存在が少なかったことは同時代の政治家が証言しているところである。 山縣有朋は、「伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかった」と評し、西園寺公望は「自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われ…

大久保サンは専制主義の人ではない——伊藤博文談

前回の記事で、伊藤博文が「大久保公は専制主義の人ではない」と述べていたことに触れた。そこで今回は、『甲東逸話(勝田孫弥編)』『伊藤博文直話』などから、伊藤博文が語る立憲政治における大久保公の実像に迫りたい。 世間の大久保観に対する反論 伊藤…

陸奥宗光を宥した大久保利通の大度量

以前の記事で触れたように、西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義の木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家…

松方正義に死を勧めた大久保利通

明治2年頃、大久保公が松方正義の首を助けたと前回の記事で紹介したが、明治6年にはその松方正義に対して死を勧めている。一見すると正反対の態度であるが、どちらも大久保公の政治信条に反したものではなく、公自身がいかなる態度で政局に臨んでいたかが…

松方正義の首を助けた大久保利通

松方正義の述懐によれば、廃藩置県の建議書を大久保利通に見せたところ、「(薩人に)この書を見せるな、また決してこれを口にするなかれ、このことがわかると、あなたが廃藩置県を建議したというて、首を刎ねられるぞ」と注意されたという。 後年、この大久…

幕末の名宰相阿部正弘の言行

幕末の大宰相阿部正弘の言行を『阿部正弘事績』から抜粋し、現代文に改めて紹介。 風采 当時阿部正弘に接した家臣が、その風采について次のように記している。 「身長は中背にして肥満し、色白く、眼涼やかに、髪黒く麗しく、面相つねに春のごとく賑わしく、…

阿部正弘の死去とその影響

阿部は安政4年4月頃から体に異常を感じはじめ、5月には胸が痛み、そして6月17日ついに病没した。享年39歳であった。 このとき鹿児島に帰国中だった島津斉彬は阿部の訃報に接し、「阿部を失いたるは天下のために惜しむべきなり」と歎息したと伝えられ…

阿部正弘と幕薩縁談

前回の記事で触れたように、将軍家と島津家の縁談が持ち上がったとき、大奥側では側室として迎えるつもりだった。それに反対したのが阿部正弘で、側室という大奥側の意見を取り消させ、無事に篤姫を正室として輿入れさせた。この一件は阿部正弘の事績におい…

篤姫入輿と将軍継嗣問題

徳富蘇峰は幕府と薩摩の縁談が持ち上がったことは将軍継嗣問題のためでなかったことを看破していた。そして芳即正氏が安政元年頃に書かれた「御一条初発より之大意」をみつけたことでこの縁談が嘉永3年に持ち上がっていたことが判明し、それによりこの縁談…

大隈重信による木戸・大久保・西郷評――『大隈侯昔日譚』

大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で西郷については冷評していることが多い。『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、頗るこれを疑うのである」と語り、…

日本統一のために人材を登用した木戸孝允

前回の記事では大久保利通が西園寺公望にむかって「卿等の時代になれば藩閥の問題が政治に少なからず面倒を惹起することであろう」と注意を与えていたことを書いたが、その大久保自身も藩閥の弊害を最小限にすべく尽力していたと感じられる。それはこれまで…

大久保利通と西園寺公望

「野に遺賢なし」とは東洋の政治哲学における理想である。大久保利通はこの理想を実現させるべく人材登用、人材養成に力を入れていた。明治元年、岩倉具視宛の書中で以下のように書いている。 公卿若年の御方三四名、諸藩より七八名、極めて御精選を以て、英…

山本権兵衛の記憶に強く刻まれた大久保利通の逸話

東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢し、海軍大臣として日露戦争を勝利に導いたことで知られる山本権兵衛。彼は維新前から俊英として知られ、大議論家でもあった。しかしそんな彼ですら、大久保の威厳には敵わなかったようである。高橋新吉はつぎのとおり述…

碁の打ち方にあらわれた維新元勲の性格

大隈重信は「趣味に乏しい人だった」が、囲碁は特別好きだったらしい(岡義武『近代日本の政治家』)。 photo credit: igo with skeleton stones from kobayashi satoru via photopin (license) 大隈が見た元勲らの碁 大隈はあるとき維新の元勲たちの碁の打…