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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

2015-01-01から1年間の記事一覧

大隈重信が涙ながらに語った大久保の思い出――大隈と川路の仲を取りなしたことなど

今回紹介する逸話は『甲東逸話』に載せられているもので、明治14年大隈が辞職したとき、大隈邸に寓居していた西幸吉に語ったことだという。 大隈が辞職したことに驚いた西が「国家のために甚だ遺憾である」と述べたところ、大隈はつぎのように語りはじめた…

佐々友房と肥後気質

副島種臣が養子にすることを望み、木戸孝允をして「後世恐るべしはこの子なり」と言わしめたほどの秀才だった佐々友房。もしも彼が東京に留まり副島種臣に薫育されたならば才徳兼備の一大人物になっただろう。あるいは、才徳兼備とまでいかなくとも、後年の…

中井弘と桐野利秋

中井弘(ひろし/ひろむ)は薩摩出身の人物としてはかなり風変わりな経歴で、面白い逸話が豊富な人物である。しかも彼は桐野利秋に認められ、桐野の庇護を受けていた。そのため彼の伝記『中井桜洲』には、あまり知られていない桐野の人間味や中井に利用され…

堤正誼談「橋本左内」――中根雪江や西郷隆盛の口まねをしていたことなど

橋本左内と同年に生まれ、ともに藩学明道館の幹事を務めた堤正誼が『橋本左内言行録』で談話を述べているので要約して紹介する。 橋本左内の身長と容貌 橋本左内の身長は五尺(151.1㎝)で色が白く痩せて優しい婦人のような容姿だったことはよく知られている…

桐野利秋が「人斬り半次郎」として畏れられていたころの逸話

中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、当時その名を知らぬ者がいない存在だった。 白柄朱鞘の和泉守兼定を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放つ。それにくわえて「人斬り半次郎…

山岡鉄舟に投げ飛ばされた雲井龍雄

徳川慶喜が大政奉還したことにより、王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が樹立された。 この新政府にあって徳川氏の立場を弁護しつづけた一人が雲井龍雄であった。徳川氏が朝敵とみなされていることに憤慨した雲井は、上書して冤を訴えるも聞き容れら…

「橋本左内の思い出」佐々木長淳談

明治時代に殖産興業のために尽力した佐々木長淳(ちょうじゅん/ながあつ)は、幼いころから橋本左内と親交があった。長淳が78歳のときに語った橋本左内の思い出が『橋本左内言行録』に載せられている。左内の人物像を知る貴重な証言なのでここに要約して…

斉彬に重用されてからの西郷隆盛の活動

安政三年、西郷隆盛は本格的に重用されはじめた。 七月九日には斉彬から書状を託され水戸へむかっている。これは徳川斉昭への書簡を届けるだけではなく、書面だけでは伝えきれない秘事を水戸藩の重臣に授けるきわめて重要な任務だった。 徳川斉昭の活路を開…

山岡鉄舟の西郷隆盛評

佐賀の乱が起こった明治7年、山岡鉄舟は密命を帯びて鹿児島を訪れている。このとき西郷隆盛と語りあい旧情をあたため、昔と変わらず高潔な志を宿していることを知り、西郷が政府打倒など考えていないと確信した。 その三年後、事西郷の志と違って西南戦争が…

西郷従道の人柄と処世訓

鹿児島出身であり福沢諭吉に親炙した山名次郎は、国民協会を創設したころの西郷従道とともに各地を歩き、その人柄を深く観察することができたと『偉人秘話』で述べている。 西郷従道の人柄 元来(従道)侯は、容貌魁偉躯幹雄大にして、つねに顔色艶々しく、…

大久保利通と中江兆民

ルソーの『社会契約論(民約訳解)』を翻訳したことで知られている中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。 中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。 中江の熱意 土佐藩の足軽であった中江は、…

独立の気象がある西郷隆盛と大見識をもって服従させた島津斉彬

島津斉彬はかつて、「西郷だけは薩国貴重の大宝である。しかし独立の気象があるので彼を使えるのは私だけだろう」と語っていた。 後年、島津久光が藩の権力を握り率兵上京を計画したとき、西郷が反対したことを思いあわせれば、斉彬は西郷の性質を看破してい…

『冷血と温血』福地源一郎の大久保評

「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物である」 という福地の大久保評は、Wikipediaにも載っているので、よく知られているとおもう。しかし前述の文は大久保評の一部分でしかなく、その後に人間的な温かさについて触れていることはあまり知られてい…

池辺三山著『明治維新三大政治家(大久保・岩倉・伊藤論)』

本書に序文を寄せている夏目漱石は、池辺三山との出会いを回想して、西郷のように感じたと書いている。 池辺君の名はその前から承知して知っていたが、顔を見るのはその時が始めてなので、どんな風采のどんな恰好の人かまるで心得なかったが、出て面接して見…

台湾時代の新渡戸稲造と児玉源太郎

新渡戸稲造が台湾に奉職することになったのは、児玉源太郎(台湾総督)、後藤新平(民政長官)に要望されたからだった。 新渡戸は二人との面識はなく、二人が要望した理由もわからなかった。 後藤新平はおなじ岩手出身とはいえ彼は旧仙台藩で、新渡戸は旧南…

森銑三著『おらんだ正月』

本書は明治以前に医学、植物学(本草学)、天文学などで功績のある人物が紹介されています。 児童の雑誌のためにまとめられた書籍ですから、平易な文章で書かれていて、とてもわかりやすいです。(森銑三氏の文章が好きな自分としては、ややもの足りない感じ…

Google Play ブックスで無料で読める徳富蘇峰の著作について

自分が理解されるのは千年後だ、と徳富蘇峰(とくとみ そほう:徳富猪一郎)は自負していたそうですが、現段階では彼の再評価がおこなわれるどころか、著作すら入手しがたい状況です。 大型書店を覗いてみても「吉田松陰」ぐらいしか見かけないのではないで…

西郷隆盛の藩政改革を制止した島津斉彬

島津斉彬の男児は『高崎くずれ』の頃に相次いで亡くなっている。この不幸は、お由羅側(久光擁立派)が呪詛したためだという風説があり、西郷もそれを信じて疑わなかった。 そして嘉永七年(安政元年)七月二十四日、当時六歳だった虎寿丸(とらじゅまる)が…

水戸側の人物と交流して薩摩藩の改革が必要であると実感した西郷隆盛

前回書いたとおり西郷隆盛と藤田東湖は互いに認めあい、国政改革の同志として親交していた。東湖の紹介により、江戸にいた志士と交わるようになる。当時の西郷に影響を与えたのは、水戸藩の人物が多かったようである。 水戸藩の俊傑たち 戸田忠敬(とだ ただ…

西郷隆盛と藤田東湖の関係

海江田信義が藤田東湖と面会したのは嘉永6年だった。つまり西郷が東湖と面会する1年前である。 東湖は、「大事業をなす人物が必要だ。薩摩の人物はどうであるか」と海江田に訊いている。 海江田信義は、西郷隆盛と大久保利通のことを語ると、 「二人は何歳…

西郷隆盛の生涯

西郷隆盛の生涯に関する記事のまとめ 1827年(文政十年)12月7日、下加治屋町(しもかじやまち)に生まれる。 父は吉兵衛(きちべえ)、母はマサ。先祖は菊池武光だとされる。 少年時代 13歳のときに友達と喧嘩して右腕を斬られ(故意か事故かは不…

大久保利通の生涯

大久保利通の生涯に関する記事のまとめ 1830年(天保元年)8月10日、大久保利世の長男として生まれる。生まれた場所は「高麗町」だというが、幼年のころに加治屋町に移住したことから誕生の記念碑も加治屋町に建てられたと『大久保利通伝』に書かれて…

島津斉彬に庭方役を命じられた西郷隆盛

襲封した島津斉彬は、藩士に意見書を提出するようにすすめた。広く意見を求めて、すぐれた人材を抜擢するためだった。 西郷隆盛はこれに応じて藩政改革や農政改革についての意見書をこまめに提出していたようで、後年の西郷はつぎのように語っている。「自分…

「この忠死の列に加わらなかったことを恨む」――高崎くずれに憤慨した西郷隆盛

西郷隆盛が23歳のとき「高崎くずれ(お由羅騒動)」といわれる政変が起こる。西郷は処罰を受けなかったので、大久保利通のように一家が閉門することもなく、弾圧後も郡方書役として勤務しつづけている。 高崎くずれの頃の大久保利通の苦心 - 人物言行ログ …

西郷隆盛のルーツと遺伝について

西郷家は菊池の一族 西郷隆盛は「菊池源吾」という変名をつかったけれど、これは”吾(われ)の源(みなもと)は菊池氏”という意味だという。(『西郷隆盛 命もいらず 名もいらず』) 菊池氏といえば南朝の忠臣・菊池武光がよく知られている。『日本三大決戦…

篠原国幹と池辺吉十郎の沈黙対決

不言実行は武人の美学。それなので薩摩藩の人物には寡黙な人がおおい。大久保利通もそうだし、川路利良、東郷平八郎……しかし彼らも篠原国幹(しのはら くにもと)にくらべれば、口数が少ない程度にしか思えないかもしれない。 篠原は片言たりともゆるがせに…

島津斉彬の大度に感銘をうけた大久保利通

島津斉彬は、幕末随一の英君である。西郷隆盛が斉彬に薫陶をうけたことはよく知られている。大久保利通もまた斉彬の感銘をうけ、大人物となった一人だった。 島津斉彬の宏量大度 島津斉彬が薩摩藩主になったのは嘉永4年(1851)。斉彬が43歳、大久保…

島津斉彬を藩主とするために計画を練っていた大久保利通

前回、書いたとおり謹慎中の大久保は、表向きは固く門を閉ざしていたが、秘密裡に有志者と交流していた。彼は、君側の奸をのぞき、英明なる斉彬を藩主に立てようと暗躍していたのである。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/25/070000">高崎くずれの頃の大久保利通の苦心 - 人物言行ログ</a> 精忠組の誕生 こ…

高崎くずれの頃の大久保利通の苦心

大久保利通が21歳(このころ正助と名乗っていた)のとき、父・大久保利世が「高崎くずれ(お由羅騒動)」に連座して、喜界島に遠島。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職している。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/06/20/100142">大久保利通の父・大久保利世について - 人物言行</a>…

大久保利通の外祖父・皆吉鳳徳は日本初の西洋式帆船を建造した奇傑

大久保利通の母・ふく子の実家は、皆吉氏であり、代々有為の人物を輩出していた。なかでも利通の外祖父にあたる皆吉鳳徳(ほうとく)は、奇傑としてしられ、身体長大にしてあたかも力士を見るがごとく偉丈夫だった。(『大久保利通伝』) 伊呂波丸建造 医者…