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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

2015-01-01から1年間の記事一覧

大久保利通の父・大久保利世について

『大久保利通伝』によれば利通の父、大久保次右衛門利世(としよ:号は子老)は体格は大きいわけではないがかなりの肥満体で貫禄があった(意訳)、というように書かれている。 大久保利通は身長が高かく痩せていけれど、これは母に似たものらしい。 無学の…

禅を修業し胆力を鍛えた大久保利通『難来る、難能く我を鍛える』

吉井友実の叔父、無参禅師(むさんぜんじ)は、薩摩における有名な高徳の禅僧だった。士族を召し上げられて出家したと伝えられる。 大久保利世(利通の父)は、無参禅師について禅を学び、親しく交わっていた。こうした関係から、自然と大久保利通も参禅する…

児玉源太郎の部下への思いやり

児玉源太郎がまだ連隊長だったころ、炊事係を怒鳴り散らしたことがある。 「空腹で疲労がなおるものではない。何をぐずぐずしている」 これは演習を終えた部下の身体のことをかんがえて叱ったものである。彼は普段から、「明日の演習のために、すみやかに宿…

中村敬宇の根気

中村敬宇(正直)といえば『西国立志編 』(サミュエル・スマイルズの『Self Help』の邦訳)の一文、「天は自ら助くる者を助く」などで知られる。また彼の『敬天愛人説』が西郷隆盛に影響を与えたともいわれている。 彼は慶応二年に林董らと英国へ留学した。…

才が鈍らなかった陸奥宗光と児玉源太郎

石黒忠悳は、児玉源太郎伯は非凡の人であったと回想して、つぎのように語っている。 真にこの人は偉い人だと思う人は滅多にないが、児玉伯は実にその人です。人はよほど注意せぬと地位が上るにつれて才能が減ずる。私の知っている人で大臣などになったのも少…

座牢でイカを釣った西郷隆盛

西郷隆盛が沖永良部島の座牢にいたころ、釣り具の手入れをしていたことがある。それを見ていた土持政照(間切横目:看守)は、見馴れない道具があったので、「どのように用いる釣り具か」と西郷に訊いた。 「座敷にいながらイカが釣れる不思議な道具である」…

王陽明の逸話と格言

photo credit: Qiandaohu (1000 Islands Lake - Zheijiang Province, China) via photopin (license) 落第したときに仲間を励ます 25歳のとき、陽明は2度目の進士の試験をうけて落第した。このとき落第したのを恥じているものがいた。陽明は彼らを慰める…

高杉晋作の弟子になった田中光顕

田中光顕は、高杉晋作に弟子入りしている。その経緯と師高杉からの教訓が『維新風雲回顧録』で述べられているので紹介したい。 土佐出身の田中光顕はどうして高杉晋作の弟子になったのか? 奇兵隊を創設し高杉晋作が陸海軍総督ともいうべき立場だったとき、…

児孫のために美田を買わず

児孫のために美田を買わず―― この詩句は西郷の清廉さを表現しただけではなく、自らを戒める言葉でもあり、「この言葉に違えるようなら、我は言行一致せぬものの譏(そし)りを受くるも可である」と西郷は語っていた。 つぎに示すエピソードは、この詩が彼の…

禁門の変で自刃した久坂玄瑞の悔い

久坂玄瑞は、諌死者について念入りに研究していた。著名な人物はもちろんのこと、ほとんど名の知られていない人物についても、敬意を払って記事を読み、事細かく記録していた。 生死を顧みず、忠義のために諫言する。そうした人物に薫陶を受けていた久坂は、…

松平春嶽の大久保利通、木戸孝允評

松平春嶽(まつだいら しゅんがく)は大久保利通、木戸孝允を以下のように評している。 大久保利通は古今未曾有の英雄と申すべし。威望凜々霜のごとく、徳望は自然に備えている。木戸、広沢の如き者にあらず、力量にいたっては世界第一と申すべし。余が大久…

前島密の江戸遷都論と大久保利通の果断

大久保は創案する人ではなく、すぐれた意見を採りいれて、それを実現に運ぶところに特徴があった。池辺三山はつぎのように書いている。 大久保には、自分独りで考えた方針主義というものは、どうにも見当たらない。尊王、討幕、開国進取、遷都、廃藩置県、西…

最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取る――大阪遷都論にみる大久保利通の政治力

大久保利通の大坂遷都論は、大政奉還以上の衝激だったと佐々木克氏は語る。その衝激の大きさのために公卿の反発は大きく、廟議でも否決された。それでも大久保は屈しなかった。表面的に妥協しながらも強固な意志を貫き、臨機応変に対処し、目的としていたと…

大山巌の学問と韜晦

大山巌は、兵士に学問させるか否かで桐野利秋と言い争ったことがある。 「兵隊の調練がないときは、遊ばせておくよりも学問をさせたほうが良かろう」というのが大山の意見だったが、「兵隊に学問はいらぬ」と桐野は反対した。 そこで大山はナポレオンが学問…

岩倉具視を罵倒し、大久保利通を刺そうとした桐野利秋

西郷隆盛の腹心として知られる桐野利秋は、岩倉具視を罵倒し、大久保利通を刺そうとしたことがある。これは西郷の朝鮮派遣が実行されないことに憤ったためであるが、西郷はこのために苦しめられたという。 西郷の主張に共鳴する そもそも桐野利秋は、西郷隆…

高杉晋作にはどうしてもかなわない――とある医者の話

「俺は残念ながら、どうしても高杉にはかなわない。それもどこがどうという訳でもないが、いつでも奴には押さえつけられるような気分がして、自然負けるようになる。これは実に不思議でならぬ。どう考えてみてもその理由がわからぬ」と福岡のある医者は、人…

明治六年の政変と大久保利通

林董が大久保利通を評して、「大久保は明治年間のみならず、日本の歴史中まさしく有数の政治家である」と語っていたことは以前の記事に書いた↓ <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/04/17/103000" data-mce-href="http://hikaze.hatena…

西郷隆盛の隠遁癖——美点と欠点

横井小楠は西郷隆盛のことを、「どこやら西行に似ている」と、評したという。それは西郷の隠遁癖を看破したものである。その隠遁癖ついて大久保利通、牧野伸顕父子が語っているところを以下にまとめてみた。 人々の手本となった隠遁癖 池上という西郷派の幹…

西郷隆盛と犬の話

上野公園の西郷隆盛像が薩摩犬をつれていることからもわかるように、西郷隆盛は愛犬家だった。西郷と犬の面白い逸話があったので、『大久保利通 』『幕末・明治名将言行録【詳注版】』から紹介したい。 大久保から妾を持つことをすすめられる 西郷と大久保が…

榎本武揚と談じて、旧幕府軍に加わった林董

イギリスに留学していた林董は、戊辰戦争が勃発したため帰国する。 帰国の途次、セイロン島で読んだ新聞により上野で彰義隊が奮戦しているのを知ったようだが、この時点で旧幕府勢力に加わるつもりがあったかは不明である。刀を売却し渡米しようとしていた彼…

幕府の命を受けイギリスに留学する——林董

英語を学んだ話の続きで、今回は林董の英国留学について。 <a href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/05/03/151710" data-mce-href="http://hikaze.hatenablog.com/entry/2015/05/03/151710">日英同盟を締結させた林董の少年時代 - 人物言行…

日英同盟を締結させた林董の少年時代

林董(はやす ただす)は日英同盟を締結させた外交官として知られる。彼の著作『後は昔の記 他―林董回顧録 』を読むと、生まれた家庭、育った環境により外交官となることは運命づけられていたようにおもえる。 父・佐藤泰然 林董の父・佐藤泰然(さとう たい…

西南戦争のとき大久保の代理をつとめた前島密

近代郵政の父として知られる前島密(まえじま ひそか)は、西南戦争のときに大久保の代理をつとめて内務にはげみながら薩軍に勝つため苦心していた。『前島密―前島密自叙伝 』のなかから逸話を紹介する。 大久保の代理となる 明治十年二月某日、大久保の使い…

林董が語る西南戦争のときに見せた大久保利通の果断

林董(はやし ただす)は、西南戦争当時を回想して、大久保利通の偉大さを認知したのは反乱が勃発したときであったと語っている。 『後は昔の記 他―林董回顧録 』に収録されている「回顧録」「後は昔の記」の内容を整理して、大久保を日本史上有数の政治家と…

万物一体となり永生する西郷隆盛――敬天愛人について4

西郷隆盛は、西南戦争によって敗亡したのではない。それどころか永生の道を見いだしている。 彼は城山陥落とともに介錯され、対立した大久保もその数ヶ月後に紀尾井坂で暗殺されるが、その後の日本において、西郷の信奉者が多数いること、大久保の政策を引き…

西郷の天命観――敬天愛人について3

寺田屋事件と西南戦争について考察したい。 どちらも西郷隆盛を苦慮させた事件であり、その衆望のために悲劇に巻きこまれたともいえる。あるいは見方を変えれば寺田屋事件により天理一体を確信し、西南戦争により万物一体となる境地を貫徹したといえるかもし…

天理と一体となる西郷隆盛――敬天愛人について2

道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ(南洲翁遺訓二十一)。 前回、敬天愛人の「愛人」について触れたので今回は「敬天」について考察してみたい。 西郷隆盛の慈愛――敬天愛人について1 - 人物言行ログ…

西郷隆盛の慈愛――敬天愛人について1

西郷隆盛は感激家であった。日本史に感激家はあまた存在するなかで、もっとも大成した偉人が大西郷であり、大西郷がなにに感銘を受け、いかに刺激されたか究明すれば、大人物を組成している要素をあきらかにできるかもしれない。 彼は「敬天愛人」——天を敬い…

明治政府の第一人者大久保利通の勇気、責任感、熟慮断行

日本を統一して一丸とさせ、国を富ませて強くし、列強とならべても遜色ないまでに発展しえたのは大久保利通の維新の理念によるものだと徳富蘇峰は書いている。 その大久保利通は政治家として以下の三点が際立っていたという。 勇気が充実していたこと 責任観…

武士は困るということを言うべきものではない――高杉晋作の家訓

「武士は困るということを言うべきものでない。困る時は、即ち死ぬる時なり、是れ我が家訓也」(『高杉晋作』横山建堂) photo credit: Philerooski via photopin cc 晋作に影響を与えた家訓 晋作は「困る」ような局面に陥らないようにしていた。もちろん、…