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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

晴海埠頭で夜景撮影に挑戦してみました

前回投稿した板橋に行った日の夜、晴海埠頭で夜景撮影に挑戦してみましたので、そのときの写真を載せようと思います(帰省とそのついでに函館旅行をしていたため、ちょっと日数が空いてしまいましたが……)。 勝鬨橋 勝ちどき駅を出てから撮影した勝鬨橋。 勝…

歴史を求めて板橋へ

これまで「東京で撮った写真」として史跡などを訪問した写真を載せていましたが、とても嬉しいはてなブックマークのコメントをいただきました。 東京で撮った写真part2 - 幕末維新備忘録 史跡を巡り。そのような視点でお写真を撮られ、こうして載せていただ…

サイトを公開しました

isin-itsuwa.net サイトがGoogle検索に表示されるようになったので紹介します。 『幕末維新逸話辞典』というちょっと大袈裟なタイトルですが、これは森銑三氏の『人物逸話辞典』のサイト版にしたという思いからです。森銑三氏の学識に到底及ばないことは承知…

東京で撮った写真part2

前記事とは別の日に撮った写真です。上野恩賜公園と円通寺の史跡を巡りながら撮影しました。 上野恩賜公園 小松宮彰仁親王銅像。 西郷隆盛像。日差しが強くてうまく撮れず……。また西郷さんの銅像の後方には彰義隊戦死者のお墓がありますが、お墓なので撮影し…

東京で撮った写真part1

一眼レフカメラを買ってから東京へ撮影しに行ったときの写真をポストしようと思います。 浅草寺 ライトアップされた浅草寺。個人的に気に入っている写真の一つです。三脚を使わずに「手持ち夜景」で撮りました。 スカイツリーと五重塔。どうもうまく収まらな…

『人物言行ログ』から『幕末維新備忘録』にブログタイトルを変更しました

長い間更新できずにいましたが、訳あってブログタイトルを変更しました。 実は少し前から幕末維新に関する逸話を蒐集したサイトを作成していました。まだそちらのサイトは公開していませんが、幕末維新の逸話はそちらのサイトの方で公開することにして、はて…

薩英戦争の笑話(奈良原家に砲弾が当たった話など)——市来四郎談(史談会速記録)

生麦事件、またそれに引き続く薩英戦争によって薩摩藩は「攘夷の先鋒」や「攘夷のチャンピオン(芳即正氏の表現)」とみなされ、攘夷急進派からもてはやされたのであるがそれは実態のともなわないものであった。そうした藩内の情況については市来四郎が詳し…

薩英戦争前の薩摩側の奇襲作戦

文久2年8月21日、生麦事件が起きた。これは大名行列の前を騎乗したまま横切ろうとしたイギリス人数名を衛士が斬りつけ、そのイギリス人のうちの一人リチャードソンが奈良原清*1によって斬殺された事件である。 イギリス政府は、幕府に謝罪書と賠償金10…

示現流について——東郷実政談(史談会速記録)

今回は『史談会速記録 合本22』の第151輯「東郷実政君の示現流剣法の由来附十六話」から、示現流にかかわる逸話を紹介したい。 東郷実政君略履歴 東郷実政君は通称六郎兵衛鹿児島県出身にして祖先以来旧藩主島津侯に仕へ世々示現流の武術師範たり君少壮…

西郷隆盛と折田要蔵の乱闘——渋谷直武談(史談会速記録)

『近世日本国民史』のなかで徳富蘇峰は、西郷隆盛が高潔な人格とユーモラスな人柄を併せ持っていたこと述べ、くわえて「西郷はことさら恭謙、士に下って、もって人心を収攬せんことを力(つと)めた王莽一流の偽君子ではない。彼はその人の悪事に対しては、…

西郷入水に関する吉井友実の回想——西郷入水後の大久保利通について

前回、前々回に引き続いて西郷入水騒動と大久保利通について。今回はまず、小河一敏が筆録した吉井友実の回想を紹介したい。 吉井友実が語る入水後の西郷 西郷は16日の午後四時頃、人々に介抱されながら家に帰った。ただ眠るが如き状態で無言だったが、夜…

西郷隆盛と大久保利通の友情——入水当時について横目役谷村の証言

前回の記事で触れたように『大久保利通伝』や『甲東先生逸話』などでは、西郷の入水騒動を知った大久保利通が現場に急行したと叙述されている。 ところが 春山育次郎*1の記すところによれば、大久保あるいはその同志が現場に駆けつけた様子は書かれていない…

西郷入水前後の大久保利通

斉彬歿後の薩藩の形勢 安政5年7月16日、島津斉彬が没すると藩内の形勢は一変して、斉彬の事業に従事していたものたちは免職または転役となり、御小姓組はその大半が除かれる「俗論蜂起」の時代となった。いわゆる「順聖公崩れ」である。その影響で大久保…

大久保利通と西郷従道——西郷清子談

『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通と西郷従道の関係は次のとおりだったという。 西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装…

大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断

古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。 そこで安間村*1…

篠原隊の不敬事件——文武硬軟二派の暗流

明治2年の10月24日、昭憲皇太后が御着京。翌日、弾正台から薩摩藩邸へ、「御用これ有りにつき、即時出頭せよ」と命令が下った。 薩摩藩邸御留守居副役の有馬藤太が出頭すると、大巡察佐久間秀脩(ひでなが)より、「この度、皇后陛下が鹿児島の旧装飾屋…

村田新八と仏罰——滴水和尚の予言

明治10年、山岡鉄舟は天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。 鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう…

山岡鉄舟の情欲修行

いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。 …

西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとし…

自由民権派に対する山岡鉄舟の態度——人の追従すること能わざる卓見と遠識

山岡鉄舟の門下であった佐倉達山氏は『徳川の三舟』という私刊本を出版している。同書で氏は、鉄舟の豪傑振り、剣、禅、書に精通していたことを述べたあと、「斯く叙来ると、彼は単に精力絶倫の一鐵漢にして、政治の得失などには無関心かの如く思わはるるが…

山岡鉄舟と清河八郎の首級

文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1 清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。 周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検…

渡辺国武の大久保利通観

無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。 大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は…

筆を執ることを嫌った大隈重信

大隈重信が筆を執らなかった理由は諸説ある——字が下手であるためだったとか、それほど下手ではなかったが席次の低いものに能書きがいたためだったとか——が、とにかく、5年や10年その邸宅に出入りした者ですら、大隈が筆を執るところは見れなかったといわ…

山岡鉄舟と清河八郎の問答——『某人傑と問答始末』

山岡鉄舟居士は『某人傑と問答始末』と題する自記を残している。この「某人傑」について『幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた 』では佐久間象山だと書かれていて、それにならって私も過去に記事を書いたのであるが、『高士山岡鉄舟居士』によれば「某人…

26杯のお汁粉を平らげた桐野利秋

幕末の頃、つまり桐野利秋がまだ中村半次郎と名乗っていたころの話。 photo credit: 花見こもち, ぎおん特屋, 原宿 via photopin (license) 京都四條畷の曙で、お汁粉26杯を平らげたことがあった。それに感心した店主は、 「手前ども開店以来いく年月のあ…

有馬藤太と桐野利秋の関係

近藤勇を降参させ、助命を訴えたことで知られる有馬藤太。彼は、桐野利秋と大の親友であり、その関係を次のように語っている。 桐野と私は最も親しかった。そして西郷先生は桐野と私を最も可愛がられた。いかなる秘密な事件でも大抵は私共二人だけには御知ら…

伊藤博文の私人としての一面——西園寺公望談

前回に引き続いて『園公秘話』から。今回は西園寺公望が見た、伊藤のプライベートの一面や逸話などを紹介したい。 奮発 西園寺は、伊藤は必要なときには勉強もしたが「普段は決してしないマア偉い勉強家とは思いません」と述べ、「個人としてつきあって見ま…

伊藤博文の政治家としての一面——西園寺公望談

『園公秘話』の付録として掲載されている「西園寺公の伊藤公観」から。これは大正3年に西園寺公望が、高橋義雄(茶人・高橋箒庵)に語ったことを速記したもので、それから20年以上秘蔵されていたが、遺言により西園寺を研究していた安藤徳器に托されたも…

大山巌元帥の逸話——西村文則著『大山元帥』

西村文則氏の『大山元帥』に載せられている逸話から、現代表記に書き換え、一部要約しながら紹介したい。 元帥の散歩振り 元帥は非常に散歩が好きであった。まず午前中は、自邸の木立深き間を約一時(いっとき)もあるいて、午後は茶縞背広服を着て、裏門か…

伊藤博文に子分が少なかった理由——金子堅太郎談

伊藤博文に子分といえる存在が少なかったことは同時代の政治家が証言しているところである。 山縣有朋は、「伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかった」と評し、西園寺公望は「自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われ…