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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通の外祖父・皆吉鳳徳は日本初の西洋式帆船を建造した奇傑

大久保利通の母・ふく子の実家は、皆吉氏であり、代々有為の人物を輩出していた。なかでも利通の外祖父にあたる皆吉鳳徳(ほうとく)は、奇傑としてしられ、身体長大にしてあたかも力士を見るがごとく偉丈夫だった。(『大久保利通伝』)

伊呂波丸建造

医者の家系に生まれた鳳徳は、長崎、江戸に出て蘭学をおさめ、藩の侍医になった。
しかし近思録党に加わっていたことから、「近思録くずれ」と呼ばれる大弾圧に連座。寺院に閉居することとなる。その後、赦されたものの藩庁に仕えず、茅屋(ぼうおく)にありながら世界情勢に眼を光らせ、日本を絶大な強国とすることを考えていた。

 

鳳徳は、海運業に着眼。蘭書を読みあさり造船について研究しはじめる。わずか数年で日本最初の西洋式帆船「伊呂波丸(いろはまる)」の建造に成功して、藩主に献上したというから驚きだ。*1
命名の由来は、「いろは」48文字の数にしたがって、つぎつぎと製造する希望を抱いてのことだったという。(『大久保利通伝』)

伊呂波丸は鹿児島、琉球間の航海に運用されていた。

しばらくしてから鳳徳は不思議な夢を見たと人に語った。
「余は元来あまり夢を見ないのだが、昨夜は珍しいことに太陽が真っ二つに打ち割られる夢を見た。これは何かの前兆かもしれん」
すると伊呂波丸が暴風に襲われ難破したとの報せが届き、それがちょうど夢を見た時間帯だったという。

牛を愛していた

鳳徳の奇行は、『大久保利通伝』『甲東逸話』でいくつか紹介されている。

鳳徳には、わが子のように愛しているメス牛がいて、いつもその背中に乗って町に出ていた。

途中で地位が高い人の行列に出会うと、自分の頭と牛の首を路傍の籬(まがき)に突込んで、牛から降りることはなかった。その姿を見た人々は、
「鳳徳は頭隠して尻隠さぬ」
と語り合ったという。

もちろんこのような行為は無礼にあたるのだが、誰も鳳徳を咎めなかった。

 

近隣の少年は、鳳徳からこの牛を借りようとうるさく、そのたびに断り文句に困っていた。あるとき、奇策が思い浮かぶ。
鳳徳の家には、千代という下女がいた。千代が嫌がるにもかかわらず、無理やり「お牛」と呼ぶことにした。

それから少年が来て、
「ちょっと牛を貸して下さい」というと、

「それ、連れていけ。オーイ、牛、牛!」
と鳳徳は大きな声で千代を呼ぶ。
少年たちは少女が出てきたことに驚いて、逃げ出すように去って行った。というのも当時の薩摩藩の士風では、少年が少女に語ることを恥じていたからである。

少年の頃の大久保利通を愛していた

松原致遠による『大久保利通』では、以下のように書かれている。

(大久保)公は幼いときから鳳徳さんに大変可愛がられた。鳳徳さんは公がまだ少年の内に亡くなったので、この可愛がりようを記憶しているのは、令妹の内一番年上のきち子刀自(とうじ)だけであるが、公は実にほかの子供や孫とは違って、非常に可愛がられた。どこか見るところがあるものの如く、可愛がっておられたから、公のどこかに変わったところがあったに違いないということがわかる。

鳳徳は普段から西洋風を好み、筒そでを着用していた。後年の大久保利通の開明的なところは鳳徳ゆずりだったといえよう。

鳳徳が亡くなったのは、大久保が8歳のときだった。その死に際も常人とは異なっていた。
彼は死の三十日前ほどまえに、この病気は薬で治せるものではない、と悟り、食事をとらず清水だけを飲みつづけ、眠るように世を去ったと伝えられる。

*1:当時、幕府は大型船の建造を厳禁としていたので、琉球船模造と称して幕府に届け出ている。