陸奥宗光を宥した大久保利通の大度量
以前の記事で触れたように、西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義の木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家の巨頭であり、立憲主義に反していると見られた大久保公であった。
大久保公が立憲政治を目指していたことは伊藤博文が証言しているし、人材登用をみても藩閥政治家ではないことは明らかである。しかし当時の急進主義者には、既述とおり反立憲主義、専制主義者大久保と映じており、大方の見解も同様であったのだろう。
小松緑は、陸奥から聞いた当時の事情を著書に載せている。
陸奥は、後年、著者(小松)に当時の事情を語って聞かせてくれた。もちろん自己弁護の動機からであったろう。
「我輩は国事犯の汚名を蒙ったが、それも君国のためを思う一念から起こったことじゃ。試みに思え、欧米の強国が、理不尽な治外法権と関税制限とで、我国の手足を束縛している時代にあって、焦眉の急務ともいうべきものは、条約改正の一事を成し遂げることではないか。この目的を達するには無能無識の藩閥政治家や外交官やにかえるに、特殊専門の学識能力ある有為の人才をもってしなければならぬ。それには、まずもって頑迷不霊な守旧派を一掃する必要があった。予はたまたま木戸や大江や林などと所見を同じうしたまでのことじゃ」事の真相はこの通りであったに違いない。その内に西南戦争の形勢は次第に賊軍の不利にかたむいて行くので、機敏な陸奥は、事既に去れりと見て、挙兵の運動を中止して、京都から引き返し、何食わぬ顔をしながら、依然として元老院に出仕していた。 ——『明治外交史実秘話』
陸奥を排斥しようとした河野敏鎌
小松の記述からもわかるとおり、当時陸奥は元老院議官だった。同僚には河野敏鎌がいた。土佐出身の河野は、陸奥とは因縁浅からぬ仲であったが、いつも陸奥の論鋒にやり込められていたため排斥する機会を待ち構えていた。
その河野は、大江、林ら土佐一派と陸奥の通謀を察し、しかも証拠となる暗号電信を入手する。そこですぐさま大久保公の邸宅に駆けつけ、
「陸奥が土佐派一味と気脈を通じて、政府転覆の陰謀を企てていたという形跡は、歴然としてもう掩うことはできなくなりました。わけて大江、林らを逮捕した今日、その連類たる陸奥独りを放任しておくわけには参りますまい」
と語って、証拠となる暗号電信とその訳文を差し出した。
大久保公はしばし沈思にふけったあと、証拠書類には一瞥もせず手提げカバンのなかに無造作に投げ込んだ。この手提げカバンには秘密書類が入れられ、大久保公が肌身離さず持っていた。後年、伊藤が引き継ぐことになる。
それから重い口を開いて、
「陸奥のことについては俺(わし)も大体知っている。風雲に乗じて功名を急ぐは、彼のやりそうな事だ。しかし、一度は思い立ったにせよ、時の非なるを悟って中止したとすれば、強いて追及するにも及ぶまい」と独り言のように述べた。
当時は司法と行政との区分が明確になっていないうえ、国事犯となると政府の命令がなければ検察官、裁判官も追及できない制度だった。政府の実権は、大久保公の手に握られていたも同然であったので、その大久保公が追及しないとなれば、それ以上河野にはどうすることもできなかったのである。
大久保の死後
明治11年5月、大久保公が暗殺される。それにより伊藤博文が内務卿となり、秘密書類を入れていた手提げカバンも伊藤に引き継がれた。
河野敏鎌はこれを好機とみた。伊藤のもとにむかい、その栄転に祝辞を述べ、すかさず陸奥のことに話題を変える。
「陸奥の一件でありますが、一旦謀反を中止したと言いながら、彼の終極の目的が藩閥政府打破にある以上、その危険性は、今なお消滅してはおらぬ。いわんや罪跡すでに明らかなりとすれば、法律上からいうも、また官紀上からいうも到底放任しておくわけには参りますまい」
後年、伊藤が韓国統監府初代統監に就任したころ、秘書的な役割を務めた小松緑は、以下のとおり述べている。
河野は、いかにももっともらしい理屈を並べたてて、自分が先に大久保に差し出した書類について伊藤の注意を促した。さなきだに小心な伊藤は、容易く河野の進言に動かされてしまった。——『明治外交史実秘話』
つまり伊藤は、「宜しい。罪跡明らかなら、もはや許すわけに行くまい」と陸奥を法廷で裁くことを決めた。法廷でも陸奥の弁才は遺憾なく発揮されたのだが、「簡単不明瞭」な判決文によって投獄されてしまった。
さきにも述べたとおり小松緑は、伊藤の秘書を務めていたこともあり、また『伊藤公全集』の編纂者でもあった。その小松が上で引用したように「小心」と述べているのは意外な気がする。しかし、それは大久保公の度量と比較したら仕方がないことなのかもしれない。
伊藤はもちろん大久保ほどの雅量を持ち合わせていなかった。大久保のえらかったのは、ちょうど八幡太郎義家が自分を兄の敵と付けねらっていた安部宗任を親近して少しも疑わなかったと同じ点にある。
藩閥政府を転覆せんとする陸奥の企ては、言うまでもなく当路の実権者たる大久保を真っ先にたおすことであらねばならぬ。大久保がそれを知りながら、陸奥の旧悪を不問に付したのは、余程の大度量でなくては、できない芸当だ。——『明治外交史実秘話』
またこれは余談であるが、小松はこの入獄が陸奥を大成させたと述べている。というのは、陸奥自身も述べているように精神修養と学問研究の絶好の機会となり、また罪滅ぼしのためでもあっただろうが伊藤は陸奥が有能であることを知り抜擢することになったのである。その後の陸奥は藩閥打倒の宿願は果たせなかったとはいえ、大打撃を与えたことは言うまでもなく、しかも条約改正についてはまったく陸奥の才覚によるものであった。条約改正における陸奥の奇才については、林董の興味深い証言もあるが、それはまた別の機会に譲ることとする。