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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

才が鈍らなかった陸奥宗光と児玉源太郎

石黒忠悳は、児玉源太郎伯は非凡の人であったと回想して、つぎのように語っている。

真にこの人は偉い人だと思う人は滅多にないが、児玉伯は実にその人です。人はよほど注意せぬと地位が上るにつれて才能が減ずる。私の知っている人で大臣などになったのも少なくないが、どうも皆そうです。後藤新平君でさえ私の見るところでは、大臣になってから十分の三ぐらいは確かに鈍ったと思います。それがそうでなかったのは、私の知っている限り児玉源太郎陸奥宗光の二人です。私は何かことあるごとに、この難局にもし生きておられたらばといつも思い出すのはこの二人です。――『懐旧九十年


二人の才能はなぜ鈍らなかったのだろうか。

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陸奥の叛骨

陸奥宗光といえば、海援隊時代に坂本龍馬から信頼されていたことで知られる。
「わが党の士にして、両刀を取り上げて飯が食える者は、ただ俺と君のみだ」
坂本龍馬が語っていたと陸奥は徳富蘇峰に述べている。(近世日本国民史 西南の役(七) 西南役終局篇)。

 

陸奥の話が誇張でないことは、彼が津田出(つだ いずる)とともに紀州藩で行った政治改革、兵制改革、人材登用――鳥尾小弥太(とりお こやた)、松本順(まつもと じゅん)、林董(はやし ただす)らを抜擢――などを見ても明らかである。


このような才覚が、後年まで鈍磨しなかったのは叛骨精神があったからだと考えられる。

 

たとえば西南戦争のとき、挙兵して政府顛覆をしようとしたところは陸奥の先祖とされる伊達政宗とどことなく重なる。血縁関係の有無はともかく、容易く人に服せず、服したように見えたときでも腹に一物を抱え、油断ならないところが似ている。

それなので陸奥を熟知していた鳥尾小弥太は、
「陸奥は機略縦横の士、もし彼に紀州の兵力を与えたならば、あたかも虎に翼を授けるものある」
といい、陸奥の募兵を阻止した。

また陸奥はつぎのようなことを側近に語っている。

「我輩は断じて何人にも屈せぬ。膝を相手に折らねばならぬのは、畢竟するに食えぬ、俸禄に離れる心配があるからであるが、卑怯者たらずとも、我輩には腕がある。誰にも依憑(いひょう:依頼)せずとも衣食する腕がある。翻訳をやってもネ」

彼がこのように矜恃していたのは、己の才腕にかける自信が揺るがなかったためだろう。

 

 

 児玉大将

児玉大将の伝記を書いた宿利重一は、陸奥が側近に語った言葉を引き合いにして、児玉大将にも陸奥に譲らず矜持するところがあった記している。

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たとえば児玉大将は、伊藤博文と基隆港(キールンこう:台湾)の工費で意見が衝突したとき、
「政治上で絶交いたします」
と述べたこともある。

また明治36年のこと、伊藤博文が軍事費削減を桂太郎に迫ったことがある。このとき児玉大将は台湾から東京に戻り、途中、山縣有朋と談論した。児玉大将の意見に賛同した山縣は、すぐ伊藤のもとにいって協議してみよと勧めるが、
「不肖は、首相桂太郎の下に属する台湾総督である。首相の許しを得たあとでなければ、大磯(伊藤のもと)に赴かない。先輩である閣下の命だとしても、承諾できないところだ」
と山縣に言い放ったという。

山縣ついては次のような発言もある。
「俺はあれ(山縣)共に体の頭は下げても、心の頭は下げとらん」


井上馨にたいしても同様だった。台湾総督として赴任する前、長々と指示する井上の話の腰を折り、
「午餐の時になった。これくらいで御免を蒙ることにしよう。すべては渡台の上じゃ、失礼!」
と立ち去ったという。

 

上司に膝を屈しなかったところは陸奥も児玉もおなじであるが、陸奥が叛骨の気味があったのに対し、児玉大将は虚心、虚無恬淡だったと考えられる。私心というものが少なかっただけに保身することなく、上司に抗ってでも正しいと信じたところを行ったのだろう。


彼らはつねに理想を抱いていた。そこに到達するために、たゆまず刻苦精励したから才覚が鈍らなかった、あるいは磨かれ続けたのかもしれない。