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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保サンは専制主義の人ではない——伊藤博文談

前回の記事で、伊藤博文が「大久保公は専制主義の人ではない」と述べていたことに触れた。そこで今回は、『甲東逸話(勝田孫弥編)』『伊藤博文直話』などから、伊藤博文が語る立憲政治における大久保公の実像に迫りたい。

 

世間の大久保観に対する反論

 

伊藤が大磯に本邸を構えていたころ、新聞に記載された板垣退助の演説を読み、次のように反論している。

わが国憲法制定の歴史中、(板垣が)民選議員の建白に尽力されたことは宜しいが、しかし大久保サンが極端なる専制主義の人で、盛んに圧制政治を行い、立憲政治のことなどは、少しもその念頭になかったように述べてあるが、これは全然間違った話である。(中略)

 大久保サンは永らく政府の枢軸に立ち、国政上の盤根錯節を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、おおよそ大久保サンほど誤解された人も少ないのである。——『甲東逸話』

 

また『伊藤博文直話』には、

世間には大久保公を目して圧政家のように思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。大久保公は早くより立憲政体を主唱された有力な一人である。

 とある。これらによって伊藤は当時の(おそらく現在においても)一般的な大久保評——専制主義であり圧政家と目されていた——を遺憾と思い、誤解を正そうとつとめていたことが窺える。そこには大久保公個人に対する同情もあっただろう。しかし、それ以上に歴史と国体の繋がりを重んじた伊藤は、将来の日本民族のためにも「大久保サンの心事を明白」にさせ、真実の歴史を伝えるべきだと考えていたのだろう。

大久保公の意見

それでは大久保公の意見はどのようなものであったか。欧米巡遊を経た後、大久保公が伊藤博文に語った内容を見てみたい。

大久保サンは自分に向かい、わが国の政体から地方行政等、内政上のだいたいに亘って話されたことがある。すなわちわが国の政体は、欧米諸国にその範をとることは必要であるが、また深くわが国体とわが歴史とに鑑みなければならぬ。政治の基礎を建設するには、まず地方行政を整理進展せしめることが必要である。(中略)

 それゆえに、結局は国会を開いて、万機公論に決しなければならないが、それには順序がある。突飛な民選議員論には、賛成することが出来ない。予の意見は概略この通りである。

このように意見を陳べたあと、大久保公自身が筆録した覚書を伊藤に渡したとのことである。

 

瀧井一博氏の『伊藤博文』には次のような記述がある。

外遊中から各国の制度取調に熱心だった木戸は、帰国後直ちに憲法制定に関する意見書を起草し、上奏した。他方で大久保は、十一月に意見書を執筆し、政体取調に従事する伊藤に托した。

 二つの憲法意見書には、一見、顕著な相違がある。何よりも木戸の意見書は、彼が「建国の大法はデスポチックに無之ては相立申間敷」と伊藤に説いていたように、天皇独裁(デスポチック)の憲法論を説いたものだった。これに対して大久保のものは、「定律国法は即はち君民共治の制にして、上み君権を定め、下も民権を限り、至公至正君民得て私すへからす」と明記されているように、君民共治を謳っていた。開明家として自他ともに認める木戸が独裁論を唱え、専制政治家のイメージがある大久保が民の政治参加を認めるとは意外に聞こえよう。——『伊藤博文——知の政治家』

伊藤博文 知の政治家 (中公新書)

この大久保公の憲法意見書は、大部な著述であった。その主張するところを伊藤は次のように”くだいて”説明している。 

憲法政治は、今、俄に実施するわけにはゆかぬけれども、つまりは、それにならなければならぬ。憲法政治を施いて国を立ててゆこうというには、各国の政体を見ても、民主とか、君主とか、それぞれの形態がある。けれども要するに、その国、その時の人情風俗によって基を立てたものである。旧に由ってこれを墨守してゆくことは、国を保つ所以でない。わが国においても、時勢・風俗・人情に従って政体を建てなければならぬ。維新以来、宇内を総攬し、あまねく四海に通じ、万邦と並立するの方針をとってきたけれども、その政治は依然たる旧套を因習し、専制の体を存している。この体たる今日にあっては、これを用いざることを得ぬ。わずかに藩政を廃して郡県となし、政令一途に出づることとなったが、人民は久しく封建の圧制になれ、千年の久しきこれが習性となっているのであるから、急劇なる変動をこれに与うることは、もちろん国を保つ所以でない。しかし将来に期するところは、わが人情・風俗・時勢にしたがって立憲の基を樹つることでなければならぬ。 ——『伊藤博文直話 

 

こうした大久保公の意見をみれば、「決して板垣伯が云わるる如き専制主義の人ではなく、誠に順序の立った、漸進論者であったことは明瞭である」と伊藤は語っている(『甲東逸話』)。 

しかも大久保公は、台湾出征に反対して参議を辞職して木戸孝允をどうにか復職させ、「驥尾に付して微力を尽くしたい」と伊藤に語っていた。そこで伊藤が、両雄の間を斡旋し「大坂会議(国会開設の準備)」へと発展するのである。

いわゆる大坂会議なるものは全く大久保サンの発議に基づき成立したるものであって、わが国の憲法史上特筆すべき重要な出来事である。その後自分が勅命を奉じて憲法制定の事業に当たったのも、実に木戸、大久保両公先輩の意志を継紹したるものにほかならないのである。世間にまだまだ誤解されたことが多いのである。——『甲東逸話』