明治六年の政変と大久保利通
林董が大久保利通を評して、「大久保は明治年間のみならず、日本の歴史中まさしく有数の政治家である」と語っていたことは以前の記事に書いた↓
では林董は明治六年の政変における大久保をどのように観ていたか。
西郷に厳然として立ち向かった大久保
征韓論争のために明治六年の政変が起こったわけであるが、このとき新政府は維新から6年、廃藩置県からわずか2年しか経たっていなかった。つまり、政府が盤石な基礎を確立できていない時期だったが、西郷が下野すると薩摩出身の武官が相次いで辞職する事態となり、そのために人々は動揺していた。
こうした難局にあたって、毅然不抜とした態度で立ち向かったのは大久保であり、大久保がいたからこそ、吉井友実や黒田清隆、川村純義、西郷従道らが残り、政府の瓦解は免れたのである。
林から見れば、当時大久保が権勢を振うことができていたのは、薩摩藩という後ろ盾があるからだった。だとすると西郷と対立すれば後ろ盾を失い、権力の維持が困難となるにもかかわらず征韓論のとき大久保は厳然とした態度で臨んでいた。
「疾風怒濤のなか屹立する灯台となり、暗黒のさきに一条の光明を放ち、航海者たちの航路を誤らせない観を呈していた」
このように当時の大久保を評している。
またこのときある顕官が大久保にたいして、
「このような時にあたりて、いかに身を処すればいいのか思案に能わぬので示教を請う」
と言ったところ、
「足下はすでに国家の大臣である。自ら信じて当然と思う方向に進退すべし。他人の意見を求めるにはおよばない」
と答えたという。