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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通と西園寺公望

「野に遺賢なし」とは東洋の政治哲学における理想である。大久保利通はこの理想を実現させるべく人材登用、人材養成に力を入れていた。明治元年岩倉具視宛の書中で以下のように書いている。

公卿若年の御方三四名、諸藩より七八名、極めて御精選を以て、英国へ御遊歴仰せ付けられ候様御座有りたく候。就いては和漢西洋の学術折衷し、不抜の皇道、今を発いて古を稽(かんが)え、その基本を闡明するの豪傑いずる事ありて、はじめて王政一新の根軸は相立候事と愚考仕り候

 続けて「公卿若年の御方」として西園寺公望、柳原前光、万里小路通房、岩倉の子である具定、具経などを海外留学に適した人材だと推薦している。

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西園寺公望 

大久保が推薦した公卿の一人、西園寺公望は聡明であり、しかも早くから留学する志を抱いていた。西園寺がいかに開明的であったかは、木戸孝允に「堂中第一の人物だ」と讃えられても喜ばず、「それでは日本一か」と訊けば、それに答えず、「しからば世界一といわれたいか」と問えば、「否、自分は一とか二とか争うものでない。世界で働ける、役に立つ人間だといわれたい」と答えたことからも知ることができる。

 

このように早くから「世界主義」的な理念を抱懐していたことも政府の要路者に嘱目された所以であろう。

そして明治2年、西園寺はフランスに留学する。後年、西園寺は自分を留学に推薦した大久保についてつぎのように語っている。

西園寺の談話

維新の前後、真に国家のために身命を賭して明治天皇の大業を翼賛した人々は多かったがその中でも、維新前では大西郷サンが各藩の間に奔走尽力され、天下の大勢を導かれて最も顕著なる功業を挙げられたのである。しかるに、王政維新の大計画を断行して、封建の制度を撤廃し、新に明治政府が建設されて政権を朝廷に収め、国家統一の大業を遂行するにあたり、真にその中軸となって幾多の困難を排し、終始一貫身を擲って実際に大事を成し遂げたものとしては、第一に大久保サンを推さなければならない。
 この時にあたって、各藩の形勢は封建の余威なお盛んであって、朝廷の実力はなく、大藩は各地に割拠して軋轢すること甚だしく、明治政府の基礎動揺して、ほとんど瓦解を見んとしたことも一再にしてやまなかった。大久保サンなどの苦心と困難とは、想像の及ぶところではなかったのである。しかして、大久保サンは最も人材の登用に意を注がれ、廟堂根軸の器材を養わなければならないと、三条公や岩倉公等の後継者たるべきものの養成と、国家の前途にむかって大いに考慮さるるところがあった。
 わが輩なども、大久保サンの推薦によってつとに海外留学を命ぜられ、明治二年フランスに行くこととなったので、いろいろ大久保サンの教訓を受けたことがある。
 今から考えてみると、実によく国家の将来を察して、時勢のむかうところを洞見された大久保サンの明識に感服せざるを得ないのである。そして今でもなお記憶に残っていることは次の言葉である。
「身皇室の藩屏たる者は、将来国家の重きに任じて大に尽くさざるべからざると同時に、自重して奮発修養しなければならない。王政復古は成就したが、前途なお遼遠である。なかなか容易のことではない。卿等の時代にならば、藩閥の問題が政治に少なからず面倒を惹起することであろう。必ず心慮を煩わすことが多くなるであろう。その折りあい等を今からよく考えおき、卿等将来朝に立ちよくその間に調和を謀り、国務の遂行せらるるよう特に注意を加えなければならぬ」と。このことを前後三度までもくり返して親切なる懇示を受けたことがある。
 大久保サンはこのことについて、当時すでに余程心配しておられたことがわかる。わが輩のごとき若輩にむかって、三度までも懇々と教えられたことを思うと、その際はあまりその言葉に気づくこともなかったが、後年に至り、しみじみと思い当たって、今更のごとく大久保サンの当時の苦心のほどが察せられ、国家を思わるることの深くかつ切なるに感激したのであった。
 
 王政復古の大事業に西郷さんの力が秀でていたことは争われない事実であるが、しかしながら、王政復古については、時勢と気運とがすでに到来していたこともまた事実である。たとえ西郷さんがおられなくとも、結局は成就されたことは疑わないのである。
 しかるに王政復古すでに成りし後、維新創業の局面となってからは、内外政治の困難であったこと到底今日においては想像も及ばないところである。この時にあたりて、もし大久保さんが居られなかったならば、明治政府はあるいは根底から瓦解に終わったかもわからない。

 三条、岩倉の後継者として

大久保が西園寺らに訓諭した内容をみれば、いかに藩閥を問題視していたかを知ることができる。事実、薩長同盟が結ばれ、王政復古の号令が発せられた直後にも薩長の関係は累卵の危機にあった。すなわち旧幕勢力の処置につき、大久保は寛典論を主張したが、長州側は旧幕側の主だった藩主の死を要求し、ついに大久保は辞表を差し出したほどである。このとき大久保を引き留めるために尽力したのは岩倉であり、大久保、副島種臣木戸孝允広沢真臣を三条邸に集めて、議を一決し破裂を免れたとのことである。こうしたこともあり、岩倉、三条の後継者たる公卿として西園寺に期待するところも大きかったのだろう。