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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとしている。これほど遺憾なことはない」と、大西郷の悲惨な最期に万斛の同情を禁じえなかった。

 

そこで大久保公は「その精神と勲業を天下に表白し、その遺徳を後世に伝えられる者は予をおいて他にその人はない」として、重野安繹を自邸に招いて、その編輯を依頼した。重野安繹は次のように語っている。

 

「十年の戦争で西郷が城山で死んだとき、故大久保内務卿はわざわざ拙者を自宅に招いて、『西郷の履歴については斯く斯くの事がある、これは人の知らぬことである。自分は西郷の伝を書こうと思うが文章の才が無いから、お前が西郷の伝を書いてくれ。その時は今話したことを書き入れてくれ』と言われた。然るに大久保公はその翌年兇徒のために殺害されたので、西郷とわずか一年の違いで死なれたのは両人が刺しちがえて死んだのと同様である。偶然であろうが不思議である。(中略)然るにその事未だ緒に就かざるに先だち、甲東は紀尾井町の変に斃れ、従ってその素志もまた水泡に帰したのであった」

 

このとき大久保公が”人の知らぬこと”として重野に語ったのは、文久2年に兵庫で刺しちがえようとしたことについてだった。

西郷と刺しちがえようとした大久保

当時、上京する久光一行に先発していた大西郷は、馬関で待機するよう命じられていた。しかし京近辺には、久光の上京に呼応して旗揚げしようとする過激派が多く、西郷はそれらの暴発を抑えるためにも馬関を発ったねばいけなかった。久光はそうした事情を知らず、また西郷が他藩士と陰謀を企てているなどと曲言するものもあり、久光は激怒した。その後、大久保が西郷に会って、真相を確かめ、それから久光に事情を陳弁したが、その怒りは鎮まらず、ついには西郷の捕縛を命じた。

 

こうした時、西郷は兵庫にいた大久保のもとを訪問した。西郷は、長井雅楽の建白を報告するため戻ったのだが、西郷が語り終えないうちに大久保は西郷を人影のない浜辺に誘い出した。

 

明治31年に本田親雄が税所篤に送った書翰(『甲東逸話』から)を意訳すれば、二人の会話はだいたい次のようになる。

大久保は、「久光公は兄(西郷)を捕縛する命を出した、罪もなく奸吏に捕縛されるくらいならば、天命だと覚悟して自裁すべきであり、自分はそれを止めない。その後自分のみが生き残って何ができるだろうか。死ぬならば兄と刺しちがえて死のう。これがわが志であり、覚悟は決めてある。だから、人気のない浜辺まで来たのである」と語ると西郷はそれに対して、
「これは大久保の言葉とは思えぬことだ。久光公の激怒と斯くの如き形勢に至ったことは今更是非もない。しかし、自分は君の想うような自裁処決をするものではない。たとえ縲紲の辱めに逢い、如何なる憂き目を見ようと、忍んで命に従い、大計の前途を見ることを期する者である。君もまたこのように覚悟を決めなければいけない。もし、この状況で吾等二人が刺しちがえてしまえば、天下の大事は去るであろう。これまで推し進めてきた画策は誰が継紹するというのか。男児が忍耐して事に当たるのはこのときではないか」と答えたのであった。*1

大久保と西郷が刺しちがえようとしたのは4月9日の晩であり、本田が大久保からこの話を聞いたのは4月11日である(『近世国民史』)。さらに本田は、「(大久保が)語り畢(おわ)て歎息一声此事たる真に秘中の秘なり、言もし外に漏れなば万事休すべし、前後の事情を洞察して、深く心に納め置給へ」と告げられたので、「大久保公が薨するまで口に登せざりし」とつけ加えている。

維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)

大久保の意志を継いだ勝田孫弥の『西郷隆盛伝』

『甲東逸話』の著者である勝田孫弥は明治27年『西郷隆盛伝』を出版した。そのとき、大久保利通の次男牧野伸顕は、「わが先人はこの志を抱いて遂に果たされなかった。今、君が数年の苦心と努力とを以て、その伝記を成就し、我輩また幾分の賛助をなすことを得たのは、偶然にして先人の意思を継紹した訳である」と大変喜ばれたという。

 

それでこの『西郷隆盛伝』には、牧野伸顕が参考資料を提供しただけではなく、大久保が語っていた西郷に関することを盛り込むことで先人の意思を継紹したのだといわれている。なお、よく知れられているとおり勝田孫弥は明治43年に『大久保利通伝』を執筆しており、このときも牧野伸顕、大久保利武の両氏が材料を提供している。それらは国立歴史民俗博物館で催されている企画展示『大久保利通とその時代』で見ることができる。



しかしなんといっても大久保公の手によって『西郷隆盛伝』が編成されなかったのが惜しまれる。小松緑山岡鉄舟などは、大久保を暗殺した実行犯は西郷の仇を討つためだと考えていたが実際には西郷の一番の理解者を亡き者にしてしまった、と語っているが、実にそのとおりだと思う。

 

速水堅曹の談話に、
「西郷、大久保両雄の心事については世の中の人の知らぬ秘密があるのです。誰も知りませんが、ただ五代友厚だけは知っていました。私も聞きましたが、これは死を以て言わぬと誓ったことだから、五代亡き後ではあるが、語られませぬ」と見えているが、西郷を知るのは俺だけだ、と自任していた大久保に至っては尚更のことであっただろう。

*1:このやりとりは西郷を服罪させるための芝居だったという説もある。

渡辺国武の大久保利通観

無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。

  大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は、全国の政権、兵権、利権を統一して、純然たる一君政治の古に復するのがその重要目的であったと考えられる。

 欧米各国を巡回されて、その富強の由って基づくところを観察して帰朝されてから以後は、第二段落である。この世界上に独立して国を建てるには、富国強兵の必要は申すまでもないが、この富国強兵の策を実行するには、是非とも殖産興業上から手を下して、着実に、その進歩発展を図らなければならない。建国の大業は、議論弁舌でも行かぬ、やりくり算段でも行かぬ処虚喝怒嚇でも行かぬ、権謀術数でも行かぬ、と大悟徹底せられた。これが大久保さんの理想の第二段落であると私は考える。

 こうした理想の変転は、大久保本人がしばしば口にしていたことであったという。またこれは安場保和の追懐になるが、やはり欧米巡回後の大久保に会って、それまでは「只豪邁沈毅の気象のみに富んだ人であったが、巡回後はそれに洒落の風を交え、加ふるに其識見が大いに増進」していたことに驚いたと語っている。

 

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一諾千金

大久保さんは沈毅果断の人で、天稟により国家の大臣たる資格を備えて居られたというてよろしい。多弁でもなければ事を軽々しく決断もされなかった。

と渡辺は述べる。当時、地方官のなかには「どうも大久保さんは何事も即答せられぬから困る」と苦情をいう人もいたが、渡辺の見るところでは、大久保公の政務裁決の返答には3パターンがあったという。

 第一には、それは『御評議にかけましょう』といううことである。この言葉は既に断行の意思を表明されたのであった。

第二には、『それは篤と考えて置きます』ということである。この言葉は、真に尚多少の考按調査を要することを意味した。
第三には、『それは御評議になりますまい』ということである。この言葉は断然たる否定の意味であると私は考えたのである。

 この第一の返答を得たときは、多言を費やす必要はなかったが、第二第三の返答であるときは、数千万言を費やして利害得失を説いて大久保公を納得させなければ、まず安心はできなかったという。


大久保の教訓

父兄がその子弟に対するように地方官に接していたという大久保公は、高知へ赴任する渡辺国武につぎのような教訓を与えそうである。

 『何しても、君はまだ三十になるかならぬ少壮の人である。赴任の後は、自ら警めて余程の重厚な態度を保たなければならぬ。今までの書生流ではならぬ。私なども君の年頃には随分詭激突飛なことをやったものである。人は途方もないところで、途方もないことを云わるるものである。

 私が薩摩の藩庁に出仕していた頃、英国の軍艦がやって来たので、それを偵察するために倉の屋根に上って、見ている中に、雨上がりで瓦に滑って転んだところが、大久保は平生詭激な議論はやかましくするが英国の軍艦を見て腰をぬかしたなどと評判せられて、大いに迷惑したことがある。何事も深沈重厚、県民の依頼心を一身に集めるように心がけねばならぬ。それが政治の秘訣である。君のためにはよい修業である

以上のように忠告したのは、当時太田黒などに高知の県令を交渉したが、高知が叛旗を翻すとの風説があったため辞退しており、誰も引き受けようとしなかったとき、渡辺が自らすすんで高知に赴任することになったからであった。

 

なお、渡辺国武が高知へ赴任したときのことを片岡健吉は次のように述べている。

「土佐の青年激徒は、侠禅赴任の報を聞き、其の一行を屠て旗揚げをしようと企てたが、侠禅は別に護衛を連れず飄然としてこの不穏の任地に到着した。又何時其の宿所を窺ってみても、孤身独影、泰然として読書に耽っている。流石の激徒も襲撃の機会を得なかった」。

 

また、大久保公が親身になってアドバイスをすることは、決して良好な関係だったとはいえない福地源一郎も語っているところである。

 

機鋒を一変させた一言

 

地租改正局にいた頃には渡辺国武が大阪府権知事渡辺昇と所見を異にしたとき、大久保公に裁決を乞うと、大久保は渡辺国武の意見に納得し、渡辺昇につぎのように命じた。

『君等は喧嘩ばかりしていても詰まるまいから、和睦して国家のために尽くすがよかろう』と。

 

後日、大久保邸で両人が饗応されたとき、酒を含んだ渡辺昇が、
「閣下は私の云うことは少しも採用にならないで、小池(渡辺国武は当時小池姓だった)のような書生のいうことばかりお聞きになったのは、意外千万である。とても改正事業の成功は覚束ない」
というと、大久保は微笑し、
維新前、君が朱鞘の大小を腰に帯び、京摂の間を横行して近藤勇等につけねらわれた頃の事を思えば、地租改正ぐらい出来るも出来ぬもあるものか』と言ったので、渡辺昇は笑い、それ以降は怨み言を言わなくなったという。

 

 大久保さんは多弁の人ではなかったが、そのいわれることは、実に『寸鉄殺人』と云われるような趣があった。(略)他人が千言万語を費やしても説明のできぬことを、ただ一言の下に喝破してその機鋒を一転せしめられたところは、流石に絶代の偉人であった。

 

鉄心石腸

大久保公がいかに囲碁を好きであったかは、渡辺の家にある大久保公の日記の写しにも、「大抵毎日、又は隔日位に『今日囲碁』ということが必ず書かれてある」ことからもわかると述べる。しかも、明治7年、全権弁理大臣として清に赴いたときも船の中で碁を打ち、難題が待ち構えているにも拘わらず、その手筋が寸毫たりとも乱れなていなかった。これには随行していた「碁好きの人が感服恐縮して居たということである。鉄心石腸というのは実にこの人の事であると思うのである」。

 

これと同様の話が明治6年、大西郷が辞表を届けたときにもある。西郷辞表の報告を受けたときも大久保の手は乱れなかったという。しかし、明治10年、熊本城包囲に大西郷が加わっていることは予期せぬことで、その手が乱れていたという逸話がある。

 

大久保さんもこの鉄心石腸を錬磨せらるるには随分と骨を折られたようである。青年時代に、西郷南洲や海江田信義の諸士と近思録会とかいうものを起こされて、毎晩遅くまで集まって真面目に錬心胆の実行を試みられたとのことである。
 維新の際における国家中興の真元勲であり、明治の大政治家たる大久保さんの事業は、実にこの錬心胆の結果と見るべきである。それ故に、この錬心胆の一事は青年諸子が最も鋭意鍛錬すべきことで、国家前途の盛衰に関係あるところの一大問題であると云わねばならぬ。

 

大久保サンは専制主義の人ではない——伊藤博文談

前回の記事で、伊藤博文が「大久保公は専制主義の人ではない」と述べていたことに触れた。そこで今回は、『甲東逸話(勝田孫弥編)』『伊藤博文直話』などから、伊藤博文が語る立憲政治における大久保公の実像に迫りたい。

 

世間の大久保観に対する反論

 

伊藤が大磯に本邸を構えていたころ、新聞に記載された板垣退助の演説を読み、次のように反論している。

わが国憲法制定の歴史中、(板垣が)民選議員の建白に尽力されたことは宜しいが、しかし大久保サンが極端なる専制主義の人で、盛んに圧制政治を行い、立憲政治のことなどは、少しもその念頭になかったように述べてあるが、これは全然間違った話である。(中略)

 大久保サンは永らく政府の枢軸に立ち、国政上の盤根錯節を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、おおよそ大久保サンほど誤解された人も少ないのである。——『甲東逸話』

 

また『伊藤博文直話』には、

世間には大久保公を目して圧政家のように思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。大久保公は早くより立憲政体を主唱された有力な一人である。

 とある。これらによって伊藤は当時の(おそらく現在においても)一般的な大久保評——専制主義であり圧政家と目されていた——を遺憾と思い、誤解を正そうとつとめていたことが窺える。そこには大久保公個人に対する同情もあっただろう。しかし、それ以上に歴史と国体の繋がりを重んじた伊藤は、将来の日本民族のためにも「大久保サンの心事を明白」にさせ、真実の歴史を伝えるべきだと考えていたのだろう。

大久保公の意見

それでは大久保公の意見はどのようなものであったか。欧米巡遊を経た後、大久保公が伊藤博文に語った内容を見てみたい。

大久保サンは自分に向かい、わが国の政体から地方行政等、内政上のだいたいに亘って話されたことがある。すなわちわが国の政体は、欧米諸国にその範をとることは必要であるが、また深くわが国体とわが歴史とに鑑みなければならぬ。政治の基礎を建設するには、まず地方行政を整理進展せしめることが必要である。(中略)

 それゆえに、結局は国会を開いて、万機公論に決しなければならないが、それには順序がある。突飛な民選議員論には、賛成することが出来ない。予の意見は概略この通りである。

このように意見を陳べたあと、大久保公自身が筆録した覚書を伊藤に渡したとのことである。

 

瀧井一博氏の『伊藤博文』には次のような記述がある。

外遊中から各国の制度取調に熱心だった木戸は、帰国後直ちに憲法制定に関する意見書を起草し、上奏した。他方で大久保は、十一月に意見書を執筆し、政体取調に従事する伊藤に托した。

 二つの憲法意見書には、一見、顕著な相違がある。何よりも木戸の意見書は、彼が「建国の大法はデスポチックに無之ては相立申間敷」と伊藤に説いていたように、天皇独裁(デスポチック)の憲法論を説いたものだった。これに対して大久保のものは、「定律国法は即はち君民共治の制にして、上み君権を定め、下も民権を限り、至公至正君民得て私すへからす」と明記されているように、君民共治を謳っていた。開明家として自他ともに認める木戸が独裁論を唱え、専制政治家のイメージがある大久保が民の政治参加を認めるとは意外に聞こえよう。——『伊藤博文——知の政治家』

伊藤博文 知の政治家 (中公新書)

この大久保公の憲法意見書は、大部な著述であった。その主張するところを伊藤は次のように”くだいて”説明している。 

憲法政治は、今、俄に実施するわけにはゆかぬけれども、つまりは、それにならなければならぬ。憲法政治を施いて国を立ててゆこうというには、各国の政体を見ても、民主とか、君主とか、それぞれの形態がある。けれども要するに、その国、その時の人情風俗によって基を立てたものである。旧に由ってこれを墨守してゆくことは、国を保つ所以でない。わが国においても、時勢・風俗・人情に従って政体を建てなければならぬ。維新以来、宇内を総攬し、あまねく四海に通じ、万邦と並立するの方針をとってきたけれども、その政治は依然たる旧套を因習し、専制の体を存している。この体たる今日にあっては、これを用いざることを得ぬ。わずかに藩政を廃して郡県となし、政令一途に出づることとなったが、人民は久しく封建の圧制になれ、千年の久しきこれが習性となっているのであるから、急劇なる変動をこれに与うることは、もちろん国を保つ所以でない。しかし将来に期するところは、わが人情・風俗・時勢にしたがって立憲の基を樹つることでなければならぬ。 ——『伊藤博文直話 

 

こうした大久保公の意見をみれば、「決して板垣伯が云わるる如き専制主義の人ではなく、誠に順序の立った、漸進論者であったことは明瞭である」と伊藤は語っている(『甲東逸話』)。 

しかも大久保公は、台湾出征に反対して参議を辞職して木戸孝允をどうにか復職させ、「驥尾に付して微力を尽くしたい」と伊藤に語っていた。そこで伊藤が、両雄の間を斡旋し「大坂会議(国会開設の準備)」へと発展するのである。

いわゆる大坂会議なるものは全く大久保サンの発議に基づき成立したるものであって、わが国の憲法史上特筆すべき重要な出来事である。その後自分が勅命を奉じて憲法制定の事業に当たったのも、実に木戸、大久保両公先輩の意志を継紹したるものにほかならないのである。世間にまだまだ誤解されたことが多いのである。——『甲東逸話』

陸奥宗光を宥した大久保利通の大度量

以前の記事で触れたように、西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家の巨頭であり、立憲主義に反していると見られた大久保公であった。

 

 

 

大久保公が立憲政治を目指していたことは伊藤博文が証言しているし、人材登用をみても藩閥政治家ではないことは明らかである。しかし当時の急進主義者には、既述とおり反立憲主義、専制主義者大久保と映じており、大方の見解も同様であったのだろう。

 

松緑は、陸奥から聞いた当時の事情を著書に載せている。

 陸奥は、後年、著者(小松)に当時の事情を語って聞かせてくれた。もちろん自己弁護の動機からであったろう。
「我輩は国事犯の汚名を蒙ったが、それも君国のためを思う一念から起こったことじゃ。試みに思え、欧米の強国が、理不尽な治外法権と関税制限とで、我国の手足を束縛している時代にあって、焦眉の急務ともいうべきものは、条約改正の一事を成し遂げることではないか。この目的を達するには無能無識の藩閥政治家や外交官やにかえるに、特殊専門の学識能力ある有為の人才をもってしなければならぬ。それには、まずもって頑迷不霊な守旧派を一掃する必要があった。予はたまたま木戸や大江や林などと所見を同じうしたまでのことじゃ」

 事の真相はこの通りであったに違いない。その内に西南戦争の形勢は次第に賊軍の不利にかたむいて行くので、機敏な陸奥は、事既に去れりと見て、挙兵の運動を中止して、京都から引き返し、何食わぬ顔をしながら、依然として元老院に出仕していた。 ——『明治外交史実秘話』

 

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陸奥を排斥しようとした河野敏鎌

小松の記述からもわかるとおり、当時陸奥は元老院議官だった。同僚には河野敏鎌がいた。土佐出身の河野は、陸奥とは因縁浅からぬ仲であったが、いつも陸奥の論鋒にやり込められていたため排斥する機会を待ち構えていた。

 

その河野は、大江、林ら土佐一派と陸奥の通謀を察し、しかも証拠となる暗号電信を入手する。そこですぐさま大久保公の邸宅に駆けつけ、

「陸奥が土佐派一味と気脈を通じて、政府転覆の陰謀を企てていたという形跡は、歴然としてもう掩うことはできなくなりました。わけて大江、林らを逮捕した今日、その連類たる陸奥独りを放任しておくわけには参りますまい」
と語って、証拠となる暗号電信とその訳文を差し出した。

 

大久保公はしばし沈思にふけったあと、証拠書類には一瞥もせず手提げカバンのなかに無造作に投げ込んだ。この手提げカバンには秘密書類が入れられ、大久保公が肌身離さず持っていた。後年、伊藤が引き継ぐことになる。

それから重い口を開いて、
「陸奥のことについては俺(わし)も大体知っている。風雲に乗じて功名を急ぐは、彼のやりそうな事だ。しかし、一度は思い立ったにせよ、時の非なるを悟って中止したとすれば、強いて追及するにも及ぶまい」と独り言のように述べた。

 

当時は司法と行政との区分が明確になっていないうえ、国事犯となると政府の命令がなければ検察官、裁判官も追及できない制度だった。政府の実権は、大久保公の手に握られていたも同然であったので、その大久保公が追及しないとなれば、それ以上河野にはどうすることもできなかったのである。

 

大久保の死後

明治11年5月、大久保公が暗殺される。それにより伊藤博文が内務卿となり、秘密書類を入れていた手提げカバンも伊藤に引き継がれた。

 

河野敏鎌はこれを好機とみた。伊藤のもとにむかい、その栄転に祝辞を述べ、すかさず陸奥のことに話題を変える。
「陸奥の一件でありますが、一旦謀反を中止したと言いながら、彼の終極の目的が藩閥政府打破にある以上、その危険性は、今なお消滅してはおらぬ。いわんや罪跡すでに明らかなりとすれば、法律上からいうも、また官紀上からいうも到底放任しておくわけには参りますまい」

 

後年、伊藤が韓国統監府初代統監に就任したころ、秘書的な役割を務めた小松緑は、以下のとおり述べている。

 河野は、いかにももっともらしい理屈を並べたてて、自分が先に大久保に差し出した書類について伊藤の注意を促した。さなきだに小心な伊藤は、容易く河野の進言に動かされてしまった。——『明治外交史実秘話』

 

つまり伊藤は、「宜しい。罪跡明らかなら、もはや許すわけに行くまい」と陸奥を法廷で裁くことを決めた。法廷でも陸奥の弁才は遺憾なく発揮されたのだが、「簡単不明瞭」な判決文によって投獄されてしまった。

 

さきにも述べたとおり小松緑は、伊藤の秘書を務めていたこともあり、また『伊藤公全集』の編纂者でもあった。その小松が上で引用したように「小心」と述べているのは意外な気がする。しかし、それは大久保公の度量と比較したら仕方がないことなのかもしれない。

伊藤はもちろん大久保ほどの雅量を持ち合わせていなかった。大久保のえらかったのは、ちょうど八幡太郎義家が自分を兄の敵と付けねらっていた安部宗任を親近して少しも疑わなかったと同じ点にある。
 藩閥政府を転覆せんとする陸奥の企ては、言うまでもなく当路の実権者たる大久保を真っ先にたおすことであらねばならぬ。大久保がそれを知りながら、陸奥の旧悪を不問に付したのは、余程の大度量でなくては、できない芸当だ。——『明治外交史実秘話』

 

またこれは余談であるが、小松はこの入獄が陸奥を大成させたと述べている。というのは、陸奥自身も述べているように精神修養と学問研究の絶好の機会となり、また罪滅ぼしのためでもあっただろうが伊藤は陸奥が有能であることを知り抜擢することになったのである。その後の陸奥は藩閥打倒の宿願は果たせなかったとはいえ、大打撃を与えたことは言うまでもなく、しかも条約改正についてはまったく陸奥の才覚によるものであった。条約改正における陸奥の奇才については、林董の興味深い証言もあるが、それはまた別の機会に譲ることとする。

 

 

松方正義に死を勧めた大久保利通

明治2年頃、大久保公が松方正義の首を助けたと前回の記事で紹介したが、明治6年にはその松方正義に対して死を勧めている。一見すると正反対の態度であるが、どちらも大久保公の政治信条に反したものではなく、公自身がいかなる態度で政局に臨んでいたかがよく顕れているとおもう。

 

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松方がある老公に語られた直話

 

明治六年秋、内務省が創設せられて以来、政府も随分多事で、征韓論の後は、佐賀の乱、台湾事件、清国談判、あるいは大阪会議等、大久保サンはいつも中心となって活躍され、真に席暖まる暇もない実状であったにかかわらず、その間内政上にも非常に注意を払われ、産業経済の事業について、奨励画策至らざるなく、大いに民力の充実を期するとともに、一面農村の疲弊を憂え、その根本政策たる地租改正の事業に着手せられた。すなわち、都会地方の価値を修正し、かつ幕府時代三百諸侯各藩に於ける幾多不統一の地価を改正し、もって負担の均衡を計り、進んで地租の軽減を断行せんとする大方針を樹立され、ついに地租改正事務局を内務、大蔵両省のあいだに置くこととなり、自ら総裁を引き受けられて、万端の計画準備に取りかかられたのである。

 これは地方によっては、農民の反抗、竹槍一揆を覚悟してかからねばならぬ難事業であり、これに対する大久保サンの態度は実に恐ろしいくらい真剣であった。

 

 余は、当時大蔵省租税頭であったが、一日大久保サンに呼ばれて、政府がこのたび地租改正の事業に着手することになったことについてご苦労ながら余に局長の椅子を引き受けるようにとのお話である。余は局長の仕事はなかなか困難な重任という事を承知しており、それにその頃とかく胃腸に悩み、健康に自信のなかった際とて、大久保サンに、不肖到底その任ではない、かつ近来健康頗る悪く、この上地租改正の難事業を担任するにおいては、第一身体が続かず、死ぬるばかりですとお断り申上げたところ、大久保サンはキッと言葉を改めて、「そんなことで御奉公が出来ますか、お死になさい。死ぬなら本望ではありませんか」と申され、敢えてお聞き入れがない。「お死になさい」の一言に、やむなく局長を承認することになった。

 

それからすぐに新しく役所が設けられ、たしか今の内幸町辺と記憶しているが、誰かの大名屋敷の古い家屋で事務を開始した。従前役人は日本間の畳のうえで座って執務しておったが、大久保サン一日検分に見え、事務室など巡回なされて、畳はことごとく取り去り、イス、テーブルに改めるようお話があった。余はこの立派な日本間を事務室に用いることは少しも差しつかえなきこと、ならびに役人はみな座って執務を好む旨申し述べたが、大久保サンはおもむろに云われるには、

「現時御維新の世の中、地租改正のごとき大改革を行わんとするに際しては非常の意気込みを要し、大改革の気分を以て事に当たらなければならぬ。いわゆる居はその気を移すという事もあるから、些々たる事をも顧みるに及ばず進んでまず改革して決心を新たにすべきである」
と激励され、翌日から畳の間を改め断然イス、テーブルで仕事をすることになり、大久保サンの方針を一同に訓示して懸命の覚悟を促したのであった。
 
 地方では百姓一揆も起こった、種々問題も生じた、随分堪えがたい繁劇の仕事であったけれども、幸いに大久保サンの厳しい督励と部下の堅忍精励とにより大体所期の目的を達成することができた。
それで大久保サンは明治九年の末、地租軽減の建議を出されたが、十年一月に至り、その建議通り地租六分の一を減じ、百分の二分五厘軽減の詔勅が煥発され、大いに民力の休養が行われることになり、ために全国の人心もまた安心したのである。この地租軽減により、政府の歳入は千万円以上の減少を来す結果となったが、大久保サンは同時に大々的に政府の行政整理を断行して歳入出の均衡を計り、さすがの大問題も英断もて見事に完成された。じつにかかる事業は大決心を以て臨みつねに先きんずるの精神にて政治の活機を会得してはじめて遂行することができるもので、当時を思い出し、そぞろ追慕の念に堪えない。云々