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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

禅を修業し胆力を鍛えた大久保利通『難来る、難能く我を鍛える』

吉井友実の叔父、無参禅師(むさんぜんじ)は、薩摩における有名な高徳の禅僧だった。士族を召し上げられて出家したと伝えられる。

大久保利世(利通の父)は、無参禅師について禅を学び、親しく交わっていた。こうした関係から、自然と大久保利通も参禅するようになり、毎朝未明に起きて、西郷隆盛とともに歩いて草牟田まで通っていたという。

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photo credit: Now via photopin (license)

このころ大久保は「難来、難能鍛我」という文字を床の間に掲げて修業していた。(松方正義談)
「大事のときにあたって(大久保)公は、いつも危険を避けず、自ら奮ってその渦中に投ぜられた」
伊藤博文が賞嘆している特長は、難事よく我を鍛える、という文字を掲げて修業した賜物なのだろう。


また無参禅師は、
「静定工夫試忙裡、和平気象看怒中」
という欧陽脩*1の語を用いて、修養させたという。

忙しいときこそ平静となる工夫を試み、怒りを覚えたときにこそ和平の気持ちを看る——

という意味なのだろうが、このころの修業について松方は、次のようなことを話している。

当世の人物はとかく栄達を求むるに汲々たるものが多い。栄達は、求めて来るものではない、人間が立派に出来上がれば栄達は求めなくても自ら来るものである。このことは予が確く信じて疑わざるところである。
 そこで、その人間を立派にしようというには、若い時分から練り上げなくてはならない。予等が二十歳頃の修養の仕方は、朋友互いに短所を注意しあって、遠慮なく切磋しあったものである。
 先輩の大久保さんや西郷さんなどは、陽明学を習われたので、自然予等もその説を喜んで迎えたものだ。また、禅宗坊主などにも就いて、鍛錬の工夫を積まれた。「静定工夫試忙裡、和平気象看怒中」という句に、工夫三昧修養を積まれたものだ。どうだ、盤根錯節に遭遇して、狼狽することなく、綽々として余裕を存し、また怒気心頭を衝き、渾身血熱するとき、平然居常のごとくなるを得たならば、人物もまた大いに高しというべきではあるまいか。
 それについて想起するは、大久保さんの胆力である。大久保さんは、実に果断断行の人であったが、しかし怒るときは、常よりも声低く、落ち着いて物を言い、すこぶる沈着の態度を取られた。そこで西郷さんも、大久保が声を低くして語り出すときには、用心ものだといわれたことがある。――『甲東逸話』

怒るほど冷静になるという特質については西郷従道も語っている。

「大久保という人は誠に不思議な人であった。普通人間は平常は正しいことを言っても、一旦怒ると条理を忘れ、言語動作も乱暴になりがちだが、大久保侯はどんな場合でも少しも乱れないのみか、怒れば怒るほどますます条理の正しくなる人であった」(山名次郎『偉人秘話』)

大久保公は、大西郷について、禅を学び禅の悪癖のために斃れたと語っていたが、当人も禅を愛好していた。しかしながら抽象的な理論を学ぶことはせず、実際上に活用できるところだけを採りいれていたようで、リアリストな大久保の性向はこうしたところによく顕れている。

 

 

 

 

 

*1:または王陽明という説もある。甲東逸話で欧陽明と書かれているので混同されているのだろう。