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幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通の生涯

大久保利通の生涯に関する記事のまとめ

1830年(天保元年)8月10日、大久保利世の長男として生まれる。生まれた場所は「高麗町」だというが、幼年のころに加治屋町に移住したことから誕生の記念碑も加治屋町に建てられたと『大久保利通伝』に書かれている。

 

幼名は正袈裟(しょうけさ)、その後正助(しょうすけ)と名乗り、お側役になってから市蔵(いちぞう)と名乗る。

先祖は藤原氏だとも畠山重忠平氏)だともいわれ、いずれにしても西郷同様に隼人族ではなかったという。

少年時代

少年時代の大久保利通は腕白でイタズラをしては大人を困らせていたと伝えられる。

しかし父・利世はイタズラ好きな大久保を咎めることはなかった。 「男児の乱暴なのは深く咎むることを要しないが、卑劣なる行為に至っては、一歩も仮借してはならない」という方針だったという。 

 青年時代

大久保は生まれながら胃が弱かったため武術は得意ではなく、その胆力は禅によって鍛えられたという。

1846年(弘化三年)17歳

記録所書役助となる。上司(記録奉行)の隈岡五助は朱子学者であり、国学、和歌に通じていた。大久保もこの人に師事している。

1850年(嘉永三年)21歳

 「高崎くずれ」あるいは「お由羅騒動」といわれる政変により一家は閉門となり、大久保も記録所書役助を免職となり謹慎する。

 

 謹慎していた大久保だが、ひそかに有志者と交流して、西郷とともに君側の奸を除く計画を立てていた。

このとき幕府が薩摩藩の政変に介入。斉興に隠退する圧力をかけ、1851年(嘉永四年)島津斉彬が藩主に就任。

1853年(嘉永6年)24歳

大久保の謹慎が解かれる。閉門中に家計が逼迫していたことを知った斉彬は、大久保を藩記録所御蔵役に命ずる。

大久保と西郷は、藩庁の権臣を退けることを意見書で訴えたが、斉彬は藩内を統一させるために権臣を留任させている。これには大久保、西郷も感服している。

 

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