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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通の父・大久保利世について

大久保利通伝』によれば利通の父、大久保次右衛門利世(としよ:号は子老)は体格は大きいわけではないがかなりの肥満体で貫禄があった(意訳)、というように書かれている。

大久保利通は身長が高かく痩せていけれど、これは母に似たものらしい。

無学の聖人

利世は、当時の薩摩藩における一人物だったらしく、税所篤(さいしょ あつし)はつぎのように語っている。

利通の父、子老は学問は深いとはいえないが、大なる人物であり、当時この人を無学の聖人と唱えていた。

「無学」というのは「学者ではない」くらいの意味だとおもわれる。というのも利世は、禅や陽明学に打ち込み、無参禅師との親交は深く、学問の方面でも大久保利通西郷隆盛に影響をあたえていた。

教育方針

少年時代の大久保利通は暴れん坊でイタズラばかりしていたと伝えられるが、利世が叱責することはなかった。

「男児の乱暴なのは深く咎むることを要しないが、卑劣なる行為に至っては、一歩も仮借してはならない」
というのが利世の方針だった。

 

社交的な人柄

(利世は)身分にこだわらず百姓、町人と磊落に交際した型破りの人物であった。その頃、財政難に悩む藩当局は、献金と引きかえに町人を武士身分に引きあげたが、一般の武士は「成り上がり」と称してこれを排斥した。しかし利世はそうでなく、「成り上がり」武士森山新蔵の人柄を好み親交を結んだ。――毛利敏彦大久保利通

 

また大久保家はいくらか裕福な家庭だったらしく、若者を招いてご馳走することもあった。
大山巌もよく声をかけられ、
「今夜来ないか、鶏を食わせてやる」
と招待を受けていたという。(牧野伸顕『回顧録』)


なかでもよく招かれたのは西郷隆盛であり、利世は学問や歴史の話を聞かせていた。後年、西郷隆盛は木場伝内に語っている。

「吾、青年時代に師事して最も益を受けたのは、有馬氏(一郎)の徳行節義、大久保子老(利世)の義気決断と、関(勇助)の宏才多智とであって、皆常に推服する所である」


義気決断

利世は、「近思録くずれ」のときは若年だったので、その改革派に属していなかったが、彼らの志を敬慕し、その生き残りの人々と深く交流した。妻・ふく子も「近思録くずれ」に連座した皆吉鳳徳の娘である。

こうした義を重んじるところがあり、『お由羅騒動』のときには、斉彬擁立派に与している。

近藤隆左衛門(こんどう りゅうざえもん)、高崎五郎右衛門(たかさき ごろうえもん)とともに、奸女由羅*1の暗殺を計画したが、事前に露顕してしまい斉彬擁立派は厳罰に処せられてしまう。


近藤隆左衛門、高崎五郎右衛門は切腹。大久保利世はこの騒動に連座して遠島。これは暗に切腹を命じていたのだが、
「今死んでしまえば、この事件の真相を語れる者がいなくなる」
と、重刑を耐え忍ぶことを決断したのである。


また流謫地に送られるとき、
「足下等よ、われは間隙に乗じて逃走することもあるだろう。油断するなよ」
と横目役をからかう剛腹なところもあった。

利世と利通の特質

義気、決断力、人材を愛するところ、剛腹――利世の特質は、大久保利通にも見受けられる。遺伝によるところもあれば、感化によるところもあるだろう。
こうした影響にくわえて謹慎中における苦心が、大久保利通の特質にさらなる磨きをかけ、老成させたようである。『難来る、難能く我を鍛える』という言葉のとおりに。

 

 

*1:藩主島津斉興の側室。実子の久光を藩主にしようと企てたとされる。

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