幕末薩摩藩の士風と教育
むかしの薩摩では、
「三年に片頬」
といわれた。武士はげらげら笑ってはいけない。三年に一度ぐらい、それも片頬だけで笑え、というのものだが、歯をみせて笑わないにせよ、薩摩人はひとに接するときにはたえず微笑をしていたように見える。西郷という人もそうであったらしい。――司馬遼太郎『街道をゆく (3)』
司馬遼太郎は西郷を例にあげているが、寡黙であり厳格だと語られる大久保利通にしてもときどき微笑みを見せていた、と接した人々の話にある。
その他司馬遼太郎は薩摩人について、
- 薩摩人は恥ずかしがり屋
- 薩摩隼人は勇猛で あり、それでいて敵には優しかった
- こうしたことから賴山陽が「薩摩の士風をもって日本の美的典型のように珍重し、それについて詩を書いているほどである」
ということを書いている。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 明治三傑 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允 』にはつぎのようにある。
「薩人の武勇については、天下ほとんど知れ渡りたる事実である。近松の浄瑠璃『おまん源五兵衛』の薩摩歌の中にも「抜くと鞘を敲(たた)き破り、再びささず死ぬるが是(こ)れ正銘(しょうめい)」」
このような気質は「郷中《ごじゅう》」という教育により、さらに鍛えられたことはよく知られている。
薩摩の下級武士の子弟教育の場である、「郷中《ごじゅう》」では、数え年6歳から12歳ぐらいまでを稚児、それから二十歳過ぎまでを二才《にせ》と呼ぶ。稚児の指導は主として二才があたり、相撲・旗取りなど軍事競技や剣術、また論語などの学習もさせた。――上田滋『西郷隆盛の世界 』
「大名カルタ」「武士(つわもの)カルタ」で遊んだり、義士や英雄武将が描かれた本を輪読し、少年たちの士気を涵養していた。一説には、この教育を見聞して感銘を受けたイギリス人が「ボーイスカウト」を発足させたといわれる。
一般的には、西郷隆盛と大久保利通は対照的な人物だととらえられている。けれども礼儀が厚いという点は非常に似ていたと証言されていて、たとえば村田新八の従弟・高橋新吉はつぎのように語る。
大久保公は部下に対しては大変親切な人でした。親切で大変よく世話もされたが、しかし決して礼譲を疎そかにされなかった。私どもを呼ぶのでも決して呼び捨てにはせず、また高橋君とさえも言われなかった。何時(いつ)も「高橋さん、あなたが」と言う風の物の言い振りで、私どもが行って辞儀をしても、先方はやはり丁寧で頭を下げて、畳へ二、三寸ばかりのところまで俯いて辞儀される。帰る時は玄関まで送って出て、シッカリと辞儀をされた。この点は大西郷がよく似ていた。同じ学校で育った人でないかと思われるほどよく似た風であった。——『大久保利通 』
西郷大久保は生まれ持った素質も別格であり、また時代によって人物が練り上げられたところもあるが、薩藩の士風、郷中教育による影響も大きかったといえるだろう。