ゲーテもおそれたデモーニッシュ(魔神的)なる力
人物が高等であればあるほど支配される
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以前の記事「ナポレオンとゲーテ -」でもちょっと触れたデモーニッシュという言葉は、『詩と真実』のなかで説明されています。
それは非理性的に見えたから神的なものではなかったし、悟性をもたなかったから人間的なものでもなかった。またそれは善行をなすがゆえに悪魔的なものではなかったし、しばしば他人の不幸にほくそえむ意地悪さが認められたから天使のようなものでもなかった。それはけっして一貫性を立証しなかったから偶然にひとしかった。またそれは、関連性を暗示していたから神の摂理にも似ていた。われわれを制約しているいっさいの事物も、このものの滲透力の前にはものの数ではないように思われた。それは、われわれの存在の必然的な諸要素を、ほしいままにあやつっているようにも見えた。それは時間を凝縮し空間を拡大した。それはひたすら不可能事のみを喜び、可能なことは軽蔑して相手にしないように見えた。こうした存在、つまり他のあらゆる事物のなかにふみこんでそれらを分離したり結合したりするように思われたこの存在を、私は、古代人やこれと似たものの存在を認めた人々の例にならって、魔神的と名づけた。――ゲーテ『わが生涯より―詩と真実抄』――
デモーニッシュなものの力は自然や芸術、動物、運命にたいして顕れるという。そして人間に働きかけたとき、もっとも顕著になると説明しています。
ゲーテはその力から逃れるようにつとめた
ゲーテは主君だったカール・アウグストを「なにびとも抗しえなかったほどのデモーニッシュなものがおありだった」(ゲーテとの対話 中 )としている。ゲーテ本人の悟性や理性で判断できないとき、カール・アウグストの本能的な意見にしたがえば、うまくいったのだとか。
スティーブ・ジョブズが”まとっていた現実歪曲フィールド”もデーモニッシュな力の一端かもしれませんね。
しかし、デモーニッシュなものは完全無欠ではない。
彼らは、智力や才能において必ずしも衆にすぐれた人とはかぎらず、心のやさしさで人に好かれるということも稀である。けれども彼らは、実におそろしい力を発揮するのであって、あらゆる被造物の上に、いな四大の上にさえ信じられぬほどの威力をふるい、そうした影響がどこまでおよぶかは誰も言うことができない。いっさいの道徳力を結集して抵抗してもいかんともしがたい。賢明な人々が彼らを「欺かれた者」とか「欺く者」とかいって指弾しようとしてもむだで、大衆は彼らにひきつけられるのである。同時代人で彼らに匹敵する者は稀有ないしは皆無である。
彼らは宇宙にたいしても戦いを始めたが、その宇宙そのもののほかに彼らに打ち克つ者はない。そしておそらくこのような所見からして、「神みずからのほかに神に敵するものはない」という。あの奇妙なおそろしい箴言が生まれたのであろう。
――ゲーテ『わが生涯より―詩と真実抄』――
「もし大公が、私のような理念と高次な努力をもっておられたならお幸せであったろうに。なぜかというと、デモーニッシュな精神があの方から失われ、人間的なものだけが残ったときに、あの方はどうしたらよいかわからず、お困りになられたからだ。」(エッカーマン『ゲーテとの対話 中 』)
頽廃した生活をおくる天才はおおい。感性に訴えるミュージシャンがとくにそんな気がします(スライもそうだし、ディアンジェロもドラッグに溺れていたという)。
それは「理念と高次な努力」が欠けていたからであって、ゲーテが天寿を全うできたことは、不思議なことではなかったのでしょう。