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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

篠原隊の不敬事件——文武硬軟二派の暗流

明治2年の10月24日、昭憲皇太后が御着京。翌日、弾正台から薩摩藩邸へ、「御用これ有りにつき、即時出頭せよ」と命令が下った。

 

薩摩藩邸御留守居副役の有馬藤太が出頭すると、大巡察佐久間秀脩(ひでなが)より、
「この度、皇后陛下が鹿児島の旧装飾屋敷前をお通りの際、窓から覗いた者が有る。それを取り調べねばならぬ故、大隊長篠原を同行して来るよう」

と通告された。

 

これに対して有馬は、
「なるほど、私は薩摩の公用人であるが篠原隊は既に軍務官附属になっているから、私の方で関係することは出来ない。これは当然軍務官にお掛け合いあるべき筋と存ぜられる」
と反論して退出。

 

その後、兵営に行って篠原に一部始終を話すと、
「当時はそういう事の出来(しゅったい)せぬために、兵隊は厳重に取り締まりをなし、一歩も外へは出さなかったから、そんな不都合なことは万々あるはずはない。もしあったとすれば、あるいは馬丁などが厩あたりから覗き申したのかも知れぬ。しかし俺は断じてそんなことはないと思う」
との返答だった。

 

夕方、再び弾正台から命令があった。「とにかく明日、篠原を同行して出頭せよ」と。

 

そこで翌日、篠原とともに出頭したのだが、有馬が中に入ろうとすると「一人でよい」といわれたため、篠原は一人で佐久間の前に出た。そういうわけで有馬は室外にいたが、室内の会話を聞くことができた。


「ハハア左様ですか、それは無論警衛の役人の眼に止まったので、御座(ごわ)んそ、がその見たと言われるのは丁度厩のところじゃから、たぶん馬の面を御覧になって、それを人間の顔と思われたのじゃろうと考える。私の兵隊は馬丁の類に至るまで、断じて一人だも覗いた者はおりません。いずれ馬の面を見違われたのに相違御座すめ」
と篠原は威丈高に答えた。これに佐久間は大いに激昂して反論した。

すると篠原は、
「それならばこれから一大隊の兵を全部引率して来るから、その覗いた当人をこれだと指名して貰おうか。果たして『これだ』と御指定が出来るなら、即座に斬り捨てて軍紀を正し申すが、万一その指が違ったら、御考えなさい
と言い放った。「御考えなさい」というのは、佐久間を斬り捨てることを意味していた。そのため佐久間は当惑した。

 

「イヤ、それには及ばない。第一ここは場所も狭いから」

 

「それでは兵営内に整列させるので、むこうまで御出張を願おう」
と篠原は詰め寄る。

 

「それにも及ばぬ、いずれ軍務官に協議してから更に御沙汰をする」
と佐久間はしどろもどろに答えた。こうしてこの一件はこれ以上追及されることはなかったという。後日、土佐の方でも同じ疑いがかかり、覗いた本人も発覚したが結局は謝罪だけで済んだということだった。

 

しかし薩摩側では問題となり、
「篠原も篠原じゃが、有馬がソー云う不都合なことを云い募るならば、あいつの御留守役をやめさせろ」と有馬も批判されたという。

 

大久保(利通)、吉井(友実)両氏などは(弾正台に対して)軟論であった、こういうことでは今度(このたび)に限らず、いつもこの両氏は腰が弱かった。

 

こうした軟論に対して不満な薩摩人もおおく、なかでも内田正風は、
「何が不都合か、有馬が不都合というならそういうことを抜かす奴が不都合じゃ、今度の事件についてはその曲直の所在実に明白じゃ、皇室に対して不敬にわたるが如き所為は断々乎として微塵もないのだ、吾々は正々堂々と事実を事実として主張するのである、何を苦しんで権勢に阿附し、旧弊時代の遺風を真似るのか」
と大いに憤ったという。

 

有馬が語るところでは、こうしたところから「文武硬軟二派の暗流が」生まれ、ハイカラといわれる人が重用されていく反面、硬派の人間が排斥されるようになっていったという。有馬自身もこの前後から、親しかった大久保、吉井の両氏と疎遠になっていったとのことである。

 

 

村田新八と仏罰——滴水和尚の予言

明治10年、山岡鉄舟天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。

 

鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう」と答えた。

 

戊辰戦争のとき鉄舟が駿府の大総督府へ向かって官軍の陣営を駈け抜けたとき、桐野利秋とともに追いかけて鉄舟を斬殺しようとした一人が村田新八であった。後日、村田は「あなた(鉄舟)がとっとと西郷のところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった」と打ち明けている。(「慶應戊辰三月駿府総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳——『最後のサムライ山岡鐵舟』)

 

鉄舟の返事を聞いた和尚は憮然として「西郷という人は多少禅の心得もあり、大人物と聞いているが、しかしこのたびの戦いは到底成功は覚束ない」と口にした。

 

 

同じ思いを抱いていた鉄舟はその理由については訊ねなかった。

 

 

西南戦争終結後、和尚は鉄舟に会ったとき「仏罰は気の毒だが致し方が無い」と言った。それを聞いた鉄舟は、和尚が薩軍の失敗を予言した理由がわかった。

 

元治元年、いわゆる「禁門の変」の際、来島又兵衛の軍が天龍寺に屯営していた。そのため薩軍天龍寺に残党狩りにむかったことがあった。このとき既に長州藩士はいなかったのだが、薩軍は砲撃を加えようとした。そこで滴水和尚は、「後醍醐天皇以来由緒ある古刹を濫りに焼かないでもらいたい」と当時隊長であった村田新八に交渉。村田はそれを承知したにもかかわらず、砲撃して焼き払ってしまった。こうしたことがあったゆえに、滴水和尚は仏罰だと言ったのである。

 

以上は「高士山岡鉄舟居士」の記述を要約して現代表記にしたものである。よく知られているように西南戦争勃発前の村田新八主戦論者ではなかったといわれる。

鹿児島帰郷後、従弟高橋新吉に送った書翰では、
「私学校の事態甚だ険悪なり。到底破裂は免れずと思う。うどさあ(鹿児島方言で大人さんの西郷のこと)の力も今は及ばずなった。自分も出来るだけ抑えることは心掛けて居るも、到底どうも手の付けようもない。この事態を喩えんに、恰も五升樽に水を一杯入れたるも、帯(箍)の正に腐朽して破裂せんとして居る如し。」(牧野伸顕『回顧録 上』)
と述べていたことからもそれは窺える。帰郷後の村田新八についてはまた別の機会に取り上げることにするが、それにしても破滅から逃れられなかったというのは滴水和尚が予言したように因果であったのだろうか。

 

回顧録 上巻 (中公文庫)

山岡鉄舟の情欲修行

いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、
「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。

 

さらに、
「自分は21歳の時から色情というものは妙なものだと疑問に思って、それから30年間、数知れぬほど女性に接したのであるが、その間実に言うに謂われぬ辛苦を嘗めた。そうして49歳の春、ある日庭の草花を見て、たちまち機を忘れること若干時、ここにおいて初めて生死の根本を裁断することができた」と述べている。

 

後年、鉄舟の実弟小野飛馬吉が語ったところでは、
鉄舟があるとき「色情というものは一切衆生生死の根本であるから、実に執拗なものだ」と言ったことがあり、それに対して飛馬吉は「色情などというものは、誰でも年を取れば自然になくなるものでしょう」と反問した。

すると鉄舟は「馬鹿なことを言う。お前の色情とは形而下の事をいうものであろうが、そんなに俺は三十歳の頃には心を動かさなかった。しかし男女の差別(しゃべつ)心を除かねば本当では無いと考え、そのため非常に苦労した。そうして45歳で『両刃、鋒を交えて避くるを須いず』の語に撤してからは、あらゆるところに物我一体の境涯を受用したが、なお仔細に考えてみれば、男女間のすこしの習気が残り居るため、一層の努力をなし、49歳の時になってようやくそれを断つことを得た」

 

最後のサムライ山岡鐵舟

『最後のサイムラ 山岡鐵舟』にある英子夫人の懐旧談では次のとおりである。

 

「鐵舟は二十一歳でわたくしと結婚しました。その当時より、しばしば独り言で『色情というやつは変なものだ。男女の間は妙なものだ』と言って小首を傾げていますので、わたくしはおかしなことを考える人だと思っていました。もともと鐵舟は何の道を修行するにも尋常なことでは満足せず、徹底的に突き詰めようとする、そのためにはすべてを賭してかかるという性質でした。
 それでも結婚後二、三年は無事でしたが、二十四、五歳の頃から盛んに、飲む、買うというようになりました。もっとも一人の女に入れ揚げるというのではなく、なんでも日本中の商売女をなで斬りにするのだなどと同輩の者には語っていたようです。なんといってもその頃の鐵舟は、一命を投げ出している諸藩の浪士らと日々付き合っていましたので、わたくしはなりゆき上やむを得ないことと諦めていました。
 しかし親族一同が騒ぎ出し、鐵舟を離縁するように何度かわたくしに迫るようになりましたが、わたくしは最後まで承知せず、鐵舟を弁護していました。ところが鐵舟はそんなことに少しも頓着しないので、ついに親族一同から絶交を申し込んで参りました。鐵舟は『それならかえって面倒がなくてよい』と言い、いかようにもご勝手にどうぞという対応でしたので、以来親族とは絶交となりました。
 とはいえ、わたくしには女の意気地というものがなく、かれこれと心配のあまり、一年ほど患ってしまいました。その頃鐵舟はたいてい東京へ出ており、わたくしは子供三人と静岡の留守宅を守っていました。ところがある夜のこと、鐵舟の枕元に顔色は青ざめ身体は痩せ衰えたわたくしがしゃんと座っていたそうです。鐵舟は驚いて、『お前は英(ふさ)ではないか』と言って、はっと起き上がったところ、その姿は消え失せてしまったとのこと。
 程なく鐵舟は帰宅すると、じっとわたくしの顔を覗き込み、お前は怖い女だなと申しますから、わたくしが『なぜでございますか』と訊きますと、今の話をしてくれましたので、わたくしは思わず懐剣を取り出し、『放蕩をやめてくださらなければ、子供三人を刺して自害するほかございません』と泣いて諫めました。
 そこで初めて鐵舟は色情の修行のために放蕩をしていることを明かしてくれ、それを聞きますと、わたくしなりにいろいろと思い当たることもあって、なるほどと合点がいきました。鐵舟は『もうお前には心配はさせない』と言い、ばったり放蕩をやめましたので、親族一同も安心し、ついに兄泥舟(夫人は高橋泥舟実妹)の発議をもって、鐵舟に山岡家の家督を相続させました。これがちょうど鐵舟が三十四歳の時だったと思います」

 

西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとしている。これほど遺憾なことはない」と、大西郷の悲惨な最期に万斛の同情を禁じえなかった。

 

そこで大久保公は「その精神と勲業を天下に表白し、その遺徳を後世に伝えられる者は予をおいて他にその人はない」として、重野安繹を自邸に招いて、その編輯を依頼した。重野安繹は次のように語っている。

 

「十年の戦争で西郷が城山で死んだとき、故大久保内務卿はわざわざ拙者を自宅に招いて、『西郷の履歴については斯く斯くの事がある、これは人の知らぬことである。自分は西郷の伝を書こうと思うが文章の才が無いから、お前が西郷の伝を書いてくれ。その時は今話したことを書き入れてくれ』と言われた。然るに大久保公はその翌年兇徒のために殺害されたので、西郷とわずか一年の違いで死なれたのは両人が刺しちがえて死んだのと同様である。偶然であろうが不思議である。(中略)然るにその事未だ緒に就かざるに先だち、甲東は紀尾井町の変に斃れ、従ってその素志もまた水泡に帰したのであった」

 

このとき大久保公が”人の知らぬこと”として重野に語ったのは、文久2年に兵庫で刺しちがえようとしたことについてだった。

西郷と刺しちがえようとした大久保

当時、上京する久光一行に先発していた大西郷は、馬関で待機するよう命じられていた。しかし京近辺には、久光の上京に呼応して旗揚げしようとする過激派が多く、西郷はそれらの暴発を抑えるためにも馬関を発ったねばいけなかった。久光はそうした事情を知らず、また西郷が他藩士と陰謀を企てているなどと曲言するものもあり、久光は激怒した。その後、大久保が西郷に会って、真相を確かめ、それから久光に事情を陳弁したが、その怒りは鎮まらず、ついには西郷の捕縛を命じた。

 

こうした時、西郷は兵庫にいた大久保のもとを訪問した。西郷は、長井雅楽の建白を報告するため戻ったのだが、西郷が語り終えないうちに大久保は西郷を人影のない浜辺に誘い出した。

 

明治31年に本田親雄が税所篤に送った書翰(『甲東逸話』から)を意訳すれば、二人の会話はだいたい次のようになる。

大久保は、「久光公は兄(西郷)を捕縛する命を出した、罪もなく奸吏に捕縛されるくらいならば、天命だと覚悟して自裁すべきであり、自分はそれを止めない。その後自分のみが生き残って何ができるだろうか。死ぬならば兄と刺しちがえて死のう。これがわが志であり、覚悟は決めてある。だから、人気のない浜辺まで来たのである」と語ると西郷はそれに対して、
「これは大久保の言葉とは思えぬことだ。久光公の激怒と斯くの如き形勢に至ったことは今更是非もない。しかし、自分は君の想うような自裁処決をするものではない。たとえ縲紲の辱めに逢い、如何なる憂き目を見ようと、忍んで命に従い、大計の前途を見ることを期する者である。君もまたこのように覚悟を決めなければいけない。もし、この状況で吾等二人が刺しちがえてしまえば、天下の大事は去るであろう。これまで推し進めてきた画策は誰が継紹するというのか。男児が忍耐して事に当たるのはこのときではないか」と答えたのであった。*1

大久保と西郷が刺しちがえようとしたのは4月9日の晩であり、本田が大久保からこの話を聞いたのは4月11日である(『近世国民史』)。さらに本田は、「(大久保が)語り畢(おわ)て歎息一声此事たる真に秘中の秘なり、言もし外に漏れなば万事休すべし、前後の事情を洞察して、深く心に納め置給へ」と告げられたので、「大久保公が薨するまで口に登せざりし」とつけ加えている。

維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)

大久保の意志を継いだ勝田孫弥の『西郷隆盛伝』

『甲東逸話』の著者である勝田孫弥は明治27年『西郷隆盛伝』を出版した。そのとき、大久保利通の次男牧野伸顕は、「わが先人はこの志を抱いて遂に果たされなかった。今、君が数年の苦心と努力とを以て、その伝記を成就し、我輩また幾分の賛助をなすことを得たのは、偶然にして先人の意思を継紹した訳である」と大変喜ばれたという。

 

それでこの『西郷隆盛伝』には、牧野伸顕が参考資料を提供しただけではなく、大久保が語っていた西郷に関することを盛り込むことで先人の意思を継紹したのだといわれている。なお、よく知れられているとおり勝田孫弥は明治43年に『大久保利通伝』を執筆しており、このときも牧野伸顕、大久保利武の両氏が材料を提供している。それらは国立歴史民俗博物館で催されている企画展示『大久保利通とその時代』で見ることができる。



しかしなんといっても大久保公の手によって『西郷隆盛伝』が編成されなかったのが惜しまれる。小松緑山岡鉄舟などは、大久保を暗殺した実行犯は西郷の仇を討つためだと考えていたが実際には西郷の一番の理解者を亡き者にしてしまった、と語っているが、実にそのとおりだと思う。

 

速水堅曹の談話に、
「西郷、大久保両雄の心事については世の中の人の知らぬ秘密があるのです。誰も知りませんが、ただ五代友厚だけは知っていました。私も聞きましたが、これは死を以て言わぬと誓ったことだから、五代亡き後ではあるが、語られませぬ」と見えているが、西郷を知るのは俺だけだ、と自任していた大久保に至っては尚更のことであっただろう。

*1:このやりとりは西郷を服罪させるための芝居だったという説もある。

自由民権派に対する山岡鉄舟の態度——人の追従すること能わざる卓見と遠識

山岡鉄舟の門下であった佐倉達山氏は『徳川の三舟』という私刊本を出版している。同書で氏は、鉄舟の豪傑振り、剣、禅、書に精通していたことを述べたあと、「斯く叙来ると、彼は単に精力絶倫の一鐵漢にして、政治の得失などには無関心かの如く思わはるるが、決して左にあらず。人の追従すること能はざる一種の卓見と遠識とを持って居る」として、板垣退助が来訪したときのことを紹介している。本文を要約すれば次のようになる。

 

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板垣との問答


理論家の板垣は、舌を振るって立憲制度の美点を説き、「英国には二つの政党が対峙して、互いに真理を見出し、善くその正鵠を失わない。我邦もこれに倣わなければならぬ」と述べた。

 

鉄舟は耳を傾けて静黙してのだが、板垣が語り終わると、「板垣さん。折角の御論だが、それは取止めにして頂きたい。外国ではそうかも知れませんが、我国情には適しません。元来人間という奴は名利の固まりだから、党など組めば、その勢いを恃んで公平の考えなどは出ません。終には百弊続出して、また如何ともすることができません。貴方は国家の元老だから、深く考えて貰いたい」と言い出した。

 

それを聞いた板垣は不満げに、
「先生は西洋の事を御承知ではないからだ」と一言残して、立ち去ったという。

 

下野の自由党員との問答

 

また佐倉氏が明治26年に出版した『山岡鉄舟伝』の中には、ある自由党員が自由民権論を説いたときの話が載っている。

 

それによれば、下野の自由党員某が国会開設請願のために上京したとき、鉄舟のもとを訪問して、西洋の学理と当今の形勢、さらに自由民権の説を論じて、鉄舟の意見を叩いた。すると鉄舟は何も言わずに腰をあげようとした。そこで某が、
「小生の意見は既に開陳したとおりであるが、先生が何の返答も無く立ち去られようとするのは、どういう次第ですか」と詰ったのだが、鉄舟は大笑して、「やはり私の自由ではないか。君は何故に私の自由を妨げようとするのか」と答えた。これには自由党員某は何も返せず、立ち去るしかなかったという。


一見すると西洋の思想や政治制度に冷淡な態度を持していたようであるが、あるいはこれは禅問答のような深みのある言動で、極端な欧化主義に痛棒を与えて内省を促し、中庸に立ち返らせようとしたのではないだろうか。たとえ中庸は望めないとしても、深思熟察を求めたであろうことは板垣への返答を見ても明らかである。こうしたところに「人の追従すること能はざる一種の卓見と遠識」があり、佐倉氏が世に伝えようとしたところだと思われる。