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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

島津斉彬を藩主とするために計画を練っていた大久保利通

前回、書いたとおり謹慎中の大久保は、表向きは固く門を閉ざしていたが、秘密裡に有志者と交流していた。彼は、君側の奸をのぞき、英明なる斉彬を藩主に立てようと暗躍していたのである。

 

 

精忠組の誕生


このころ大久保は、西郷隆盛、長沼嘉兵衛、税所篤、有村俊斎(海江田信義)らと近思録の研究をしながら修養していた。研究会のメンバーがもとになって精忠組(誠忠組)へ発展する。

「現在の時世は、いたずらに読書に励み、文章字句の討究に尽瘁するときではない。男児たるもの必ず大志を起こし、身命を実地にいたすべきなり」
「志とは何か」
「邦家に尽くす丹誠である」
「丹誠とは何か」
「自身の精神を錬磨することなり」

このような問答を繰りかえし見識を高めていった。なかでも大久保の論理性が際だっていたと伝えられる。


伊藤茂右衛門のもとで陽明学を学ぶ

おなじころ西郷は、
「伊藤茂右衛門は陽明学に精通していると聞く。陽明の学は、士の精神を錬磨するに好し。よければ一緒に習おうではないか」(『大久保利通伝』)
と大久保に提案した。それにより彼らは伊藤茂右衛門(いとう もえもん)のもとに通いはじめる。


伊藤茂右衛門について松村淳蔵は以下のとおり語っている。

この伊藤という陽明学者は有名な厳格な人であったが、薩摩のその頃の若いもんときたら、これがまた世間知らずの恐ろしい武骨な一本気なものでの。なんでもある時、伊藤が門閥の家へ行って、酒を呑んだことがあったとみえる。すると、その噂を聞いた、こん西郷、大久保、吉井なんどは、そいは(それは)怪しからん、平生はあんなに厳格であるのに、門閥のところで酒を呑むような言行一致せぬ師匠には、お互いに物を習うまいというので、海江田が一番若かったから、伊藤のところへ明日から習いに来ぬという断りの使者に出かけた。
 弟子の方から師匠を破門しに行ったのじゃ。ところが伊藤の言うには、おいは酒を呑んだ、が、酒を呑んでなんが悪い、心が動くからいかんというのか、ハハアお前たちの心はよか心じゃの、おいは酒を呑んで動くような心は持ち合わせがないわ、と言ってさんざん愚弄されて帰ってきた。こん三人もこれを聞いて、なるほど吾々が考え違いじゃったと言って、再び習いにいったそうじゃが、若い時分の気質が大体こういう風じゃった。――『大久保利通 』松村淳蔵談

烈士の志を継ぐ

以上のとおり謹慎中の大久保は研究会なり、伊藤のもとに通うなどして修養につとめていた。しかし、あるとき大久保と西郷が研究会に参加しないことがあった。そこで有村俊斎が、なぜ参加しなかったのか、と問い詰めても、二人は謝罪するのみで理由を明かさない。

そうしたことが三度あり不審を抱いた有村がきびしく詰責したところ、二人は、
「約束をやぶってしまい、すまぬことをした。どうかゆるしてほしい。我らは有馬翁(一郎)とともに、君側の奸を排除する計画を練っていたのだ」
と打ち明けた。


このとき改革派の重鎮有馬一郎、関勇助は謹慎中だったが、大久保と西郷はひそかに訪問して教示をあおいでいた。
「高崎くずれ」により処刑された烈士の志を継ぎ、君側の奸を排除して、英主・斉彬公を奉戴するために——

 

 

斬奸を計画していたことを知った有村は、疑っていたことを謝り、自らも奮起すると誓ったという。

 

しかし、大久保や西郷らによる斬奸は実行されることはなかった。というのも薩摩藩の内訌にたいして、かねてから斉彬と親しくしていた幕府の老中・阿部正弘が動き、島津斉興に隠居するように圧力をかけたのである。これにより斉彬が藩主となり、大久保の謹慎は解かれ、また父・利世も復帰することができた。そして薩摩藩が躍進する時代となる。

 

 

 

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