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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

資治通鑑に書かれたリーダー像(晋~五代十国編)

 前回の続きです。

司馬師

司馬師は、司馬懿が築いた基礎を受けついだと于宝に評価されている。敗戦の処罰が諸将に及びそうになったとき、大将軍の司馬師は、
「これは私の過失である。諸将には何の罪もない」といい、監軍の職になった弟・司馬昭の爵を削った。そののちにも部下の失策があるが、「これは私の過ちである」と責任を負っている。こうした態度に、「人びとはいずれも己を省みて恥ずかしく思い、且つ、この立派な大将軍の下にいることを喜んだ」という。

 習鑿歯(しゅうさくし)論じて曰く――
 司馬大将軍は二度の敗北を自分の責任とし、それによって逆に彼の過失は消えて、すぐれた業績が建てられた。知恵の深い人物といえよう。もし、それとは反対に、敗北を嫌い、過失を他人に押しつけ、責任を他に転嫁し、一方功績の方はつねに自己のものとして、失敗は人目に触れぬように隠すというようなふうであったなら、上下心が離れ離れになり、賢愚それぞればらばらになってしまったことであろう。そうなれば過ちも甚だしいものと言わねばならない。人の上に立つ者が、仮にこの道理に基づいて国家の指導に当たったとすれば、ことは失敗したとしても逆に名声は揚がり、戦いに敗れても最後の勝利は自分の手に収めることができるであろう。何度敗れたところで、少しも差しつかえはない。まして、二度くらいの敗北など、取るに足らぬものなのである。

司馬炎

司馬師のあと弟・司馬昭が業を進め、司馬昭の子である司馬炎の時代に遂に皇帝の位を受け、晋の王朝が建てられる。于宝によれば、

司馬炎は)仁愛の心で下々を厚く恵み、倹約の心で用を足すようにし、和の心を持ちながら情に流されず、寛容な心でありながら正すべきは正しく断じ、堯舜(政治の理想とされる古代の帝王)の治めた土地をそのままに治めて、正しい暦法を四周の文明の遅れた地域にまで及ぼし、文運の隆盛を謀ったのである。

 当時「天下に窮迫せる民なし」という諺があったが、太平の世は天下にあまねく行き渡っていたのではないけれど、この諺でまた人民がその生活を楽しんでいたことを証明するには十分だろう。


しかし晋は「八王の乱」や、知識人や廟堂に虚無放蕩がはびこっていたことなどがあり滅亡する。そしてふたたび乱世となる。

王猛

五胡十国時代の「前秦」の第三代皇帝の苻堅に仕え、丞相となる王猛。

 海西公 太和五年(370) 帰服した者への応対

 昔、周は微子を得たことによって、殷の受けていた天子たるの命令を革め己に受け、また秦は由余を得ることによって、西方異種族の覇者となった。また呉は伍員(伍子胥)を得て強大な楚に勝ち、漢は人物陳平を得て楚の項籍を滅ぼし、魏は許攸(きょゆう)をえるて袁紹を打ち破った。
 このように敵国の才能ある臣が帰服してきて、己が能力を発揮するのは進取の精神に富むすぐれた資質である。
 王猛は慕容垂(ぼようすい)の心が時日を経っても信じがたいということに思いが及んでも、燕はまだ滅びていないのだとうことまでは考えが回らない。しかも垂は才能が優れ、功績が素晴らしいことから罪もないのに疑われ、窮迫して秦に帰服し、反逆の心などなかった。それを突然猜みの心から殺すというのは、これは燕と共に無道を行い、帰服する人びとへの門を閉じることになる。(中略) 正しい徳を持つ君子のなすべきことではない。

王猛は苻堅に慕容垂を殺すべきだと進言するが、苻堅はそれを聞き入れなかった。

慕容垂と苻堅

その慕容垂は前燕から逃れ、秦王苻堅につかえていた。

慕容垂は苻堅に告げる。

「私の叔父の”評”は燕において悪来(あくらい)のごとき人物です。そのままにしておいて、この王室を汚すようなことがあってはよろしくありません。どうか陛下、燕のためにかれを処刑して下さい」

しかし堅は、評を召し出して范陽(はんよう)の太守にする。これについての評は下記のとおり。

臣光曰く――
 古の人が他国を滅ぼしてしかもその国の人びとが悦んだのはなぜだろうか。それはその国の人びとの害になっているものを取り除いたからである。かの慕容評は、君の徳を蔽い隠し、政治を独占して賢人を妬み、暗愚・残虐で多欲の結果、ついにその国を亡ぼし、国は亡ぼしても死することは知らず、しかも逃れ切れずに捕らえられた。しかるに秦王堅はこれを誅すべき第一等の人物とせず、それどころか彼に手厚い恩偶を与えた。これでは一人の人物を愛してはいても、一国の人を愛しているとは言えない。したがって多くの人心を失ったのである。(略)

このようなことがあったので秦王苻堅の総評は、批判的である。

 功績が有ってもこれを賞することがなく、罪過があってもこれを誅することがないならば、たとえ堯・舜でも治めてゆくことはできなくなる。況んや他の人間ならなおのことだろう。堅は反逆者が出るたび、これを赦し、己の家臣をして反逆に対して何らの抵抗も感じないようなものにしてしまった。叛逆者たちは危険を冒して、まぐれ当たりの幸運を求め、力尽きて捕らえられてもなお死の心配もないのである。これでどうして反乱というものが自然に止むことであろうか。(中略)
 さらに堅が亡びたわけは戦いに何度も勝って驕慢になったからのことである。文侯が李克に呉が滅んだわけをたずねると、李克は、それは呉が何回も戦いを起こし、そのたびごとにそれに勝ったからである、と答えた。
文侯は、
「何回も戦ってそのたびごとに勝つというのは、国の福である。それがどうして亡びたのであろうか」と言うと、
「何回も戦えば、人民たちは疲弊し、何回も勝てば、国君は驕慢になる。驕慢な国君で疲弊した人民を治め、それで亡びなかった国は、これまでになかったのである」と答えている。
 堅はここに述べられた国君に似ている。

呉は春秋時代伍子胥孫武孫子)を得て強大な勢力を誇った。そのことについてはこちらの記事ですこし触れていますので、よかったらどうぞ。伍子胥の復讐 - 人物言行ログ

 楊堅(隋の文帝)

さてこうした混乱を最終的におさめたのは、「隋(ずい)」、いわゆる遣隋使で知られる隋です。しかしこの隋も短命に終わる。その原因は初代皇帝である文帝が、子どもたちにそれぞれ大きな要地を与え、その権限を帝室と同じようにさせたことにあるという。そのため晩年には、父と子、兄弟同士の間で猜(そね)みあい、五人の子どもはいずれも天寿を全うすることができなかったという。
文帝は、嫡子をしりぞけ、悪名高い煬帝に跡をつがせた。それが隋が短命である理由の一つにもなる。

李世民(唐の太宗)

そしてふたたび内乱が起こるが、唐により統一され、名君太宗による「貞観の治」とよばれる繁栄の時代になる。唐の太宗は、帝王学の教科書として日本でも古くから読まれている『貞観政要』の問答で知られている。

貞観政要 上 新釈漢文大系 (95)

 唐紀 高祖 武徳九年 

 太宗は賄賂を受ける官吏が多いことを患え、密かに左右に命じ、試みに賄賂を贈らせたところ、ある司門令史が絹一匹を受けた。そこで太宗はその者を殺そうとした。裴矩は諫めた。
官吏でありながら、賄賂を受けたとすれば、罪は確かに死刑に相当します。ただし陛下は人に命じてわざと贈って受けさせたのです。これでは人を法に陥れることになります。これはいわゆる『これを導くに徳を以てし、これを斉えるに礼を以てす』という精神に背くものと思われます」と。
 太宗は悦び、文武五品以上の者を召し、布告した。
「裴矩は官にあって正々堂々と諫め、うわべだけの服従をしない。何事につけてもこのようであるならば、天下は間違いなく治まるものである」と。
 臣光曰く――
 古人は言っている。「君が明かであると臣は正直になる」と。裴矩は隋のとき佞弁であったが、唐のときに忠言を吐いた。これはその性格が変化したわけではない。君主が自らの過失を聞くことを悪(にく)むと、忠の心を持つ者も化して佞となり、君主が直言を聞くのを楽しむと、佞の心を持つ者も化して忠となる。これによってわかるように、君主は表であり、臣は影である。表が動くと影はそれにしたがって移るものなのである。

また、名臣の魏徴(ぎちょう)が薨じたときに、
人は銅を鏡とすれば、衣冠を正すことができる。古を鏡とすれば盛衰を見ることができ、人を鏡とすれば、得失を知ることができる。徴が没して、朕は一鏡を失った」と嘆いたという。

紫栄(周の世宗)

最後に五代の時代随一の英主である周の世宗について。ここでは唐の荘宗との比較を引用する。

臣光曰く――
「五代の帝王のうち、唐の荘宗と周の世宗とは、ともに英武の君と称せられるが、この両君はどちらが優れているか」と問うた者がある。私の答えは――
 そもそも天子とは、万国を統治し、従わぬ国を討伐し、弱き国を安撫し、命令を施行し、制度を統一し、道義を闡明(せんめい)して、億兆の民を差別なく愛するものである。
 荘宗が梁を滅ぼすと、天下はおおいに動揺し、湖南(こなん)の馬氏(ばし)は子の希範(きはん)を使者として入貢(にゅうこう)してきた。そのとき荘宗は、
「近頃聞いた話では、馬氏の事業は結局高郁に奪われるだろうということだが、こういう子息がいるのでは郁も到底そういうわけにはゆくまい」と言っている。

 郁は馬氏の良き補佐役だったのであるが、希範の兄・希声は荘宗の言葉を耳にすると、ついに父の命令だと偽って郁を殺してしまった。これなどは、町の大道商人なみの仕業であって、決して帝王のとるべき態度ではなかった。

 思うに荘宗は戦いの上手な人で、そのために弱い晋の力で強い梁に勝つことができたが、天下を得てからは、何年もたたぬうちに内も外も離反し、身の置き所もなくなってしまった。これはまことに軍隊を動かす術は知っていても、天下を治める道を知らなかったためである。
 世宗は信(まこと)ある命令によって群臣を統率し、正義を守ることを諸国に要求した。王環は降伏しなかったことによって賞せられ、劉仁贍は城を固く守ったことによって褒賞を受け、厳続は誠を尽くしたことによって命を長らえ、蜀の兵士は再三寝返ったことによって誅せられ、馮道(ふうどう:ひょうどう)は節操をなくしたことによって打ち捨てられ、張美は私情を施したことによって疎んぜられた。江南が服属しないうちは自ら戦場に臨んで必勝を期したが、服属した後は、わが子のごとく愛し、真心から言葉をつくし遠い将来のためを考えてやった。その人間の大きさは、到底荘宗と同じ次元で論じうるものではない。『書経』に「偏無く、党無く、王道、蕩々たり」とあり、また、「大国は其の力を畏れ、小国は其の徳に懐く」とある。世宗は、ほぼその後に値しよう。

資治通鑑選』には他にも興味深い考察があるので、また機会があったら紹介したいと思います。できれば『資治通鑑』そのものを読みたいのですが入手が困難で、国会図書館のデジタルライブラリーで読むには大部であり、残念です。