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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

伍子胥の復讐

前回の楚の話のつづきです。

 

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楚は、荘王がなくなってから、世子の共王が立ち、その後は共王の子の時代になるわけですが、ここで兄弟によるクーデターがおこり、平王が立ちます。

 

このとき、かつて荘王を諫めた伍挙の子である伍奢(ごしゃ)は、平王の太子建の太傅となっていたのですが、政争にまきこまれてしまい捕らえられてしまいます。

春秋左氏伝〈下〉 (岩波文庫)

2人の息子

このとき伍奢にはふたりの息子がいました。平王は、ふたりの息子が都に来たら父を解放すると宣言。これを聞いた兄の伍尚は、弟の伍子胥(ごししょ:名は員《うん》)にいいます。

「お前は呉に行け。俺は都にもどって死ぬ」

王の宣言が策略であることを見抜いていたのです。おそらく兄弟が戻ってきたら親子ともども殺されるだろう、と。それでも、父を免すという命を聞けば、嘘でも駆けつけなければいけないし、しかしそれで兄弟二人殺されれば仇討ちができない。こうしたわけで才智優れた伍子胥を呉に行かせることにしました。

結局、平王は伍子胥が逃れたと聞いて父伍奢と兄伍尚を殺害します。

呉での活躍

呉の王は闔閭(こうりょ)は、春秋五覇に数えられる人物であり、伍子胥孫武(つまり孫子)を用いて楚を大敗させます。


伍子胥が楚の都を襲ったとき、平王はすでに死んでいました。そこで墓をあばき、死屍に300回鞭打ったとのこと。伍子胥にはこういうストレートな部分が多分にありました。復讐にはこの性質が与っていたけれど、後年の失敗の一因もまた、この性質に因ることが否めません。

 

荀子に下忠といわれた後年

闔閭は越王勾践(えつおうこうせん)との戦いで死んでしまいます。呉は夫差(ふさ)が跡を継ぎます。つねに薪の中に臥すことで報復を忘れまいとして、後年、越王勾践を降伏させました。


伍子胥は勾践を殺すべきだ、と主張。しかし夫差はその進言を受け入れませんでした。

 

生きながらえた越王勾践は、さまざまな策謀を巡らせます。夫差の配下に賄賂を贈り、また西施(せいし)という傾国の美女を夫差に献上しました。また、呉が斉を攻めようとしたときは勾践が呉王以下の将士全員に贈り物をしたのです。

こうした勾践の贈り物を喜ばなかったのは伍子胥だけで、「これは呉を肥らせようとする陰謀だ」と諫めますが、西施の色欲に溺れていた夫差は煙たがり、属鏤の剣を与え自殺を命じます。


「わが眼球を門前にかけよ。呉が滅ぼされるのを見届けよう」と自害するまえに伍子胥は言ったのですが、死体は夫差の命令で川に投げ捨てられたといわれます。その後、夫差は勾践に迫られ自害。夫差は、死の間際になり伍子胥の言葉を聞かなかったことを悔いたとのこと。

 
伍子胥は、韓非子荀子などが忠臣賢士の代表例にもちいる人物であり、史記でも「(父が捕らえられた際に)小義理をすてて、大恥辱をそそぎ、名を後世に残した。その志やまことに悲壮である」讃えられています。