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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

宮刑を受け発憤した司馬遷

前回の記事『王陽明と夢 - 人物言行ログ』では、王陽明が逆境により大悟したことを書きました。今回は宮刑を受け発憤した司馬遷について。

 

私心なく歴史を書いた人物

司馬遷が『史記』の作者ということは知っていましたが、史記列伝の「太史公自序」を読むまで、どんな人物であるか詳しく知りませんでした。

 

史記〈8〉―列伝〈4〉 (ちくま学芸文庫)


志の高さ、意志の強さは史記の登場人物に劣らず、世界史的に見ても指折りの歴史家です。

歴史家としての業績は、聖人・孔子を陵駕していたともいえる。

孔子が「春秋」を書くについて、魯の隠公と桓公の時代のことをはっきりと記すが定公や哀公の時代になると曖昧な表現を用いた。それは自分の同時代のことで、差し障りがありすぎるから価値判断を回避し、遠慮気兼ねの文辞となったのである――『史記 匈奴列伝』

と書いてあるのは、司馬遷自身が、遠慮気兼ねなく同時代を描破せんとした気概を表明している。

 

晋の陳寿によれば、

武帝は(臣下の司馬遷が)史記を書いたと聞いて、考景帝と自分の本紀を取り寄せて一覧するや、激怒して、これを破棄してしまった。現在に至るもこの二つの本紀は目録のみで本文はない――『正史 三国志 

 

武帝の激怒が事実ならば、司馬遷の記述が為政者にへつらっていなかったことを意味する。
 

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李陵の事件

司馬遷は、将軍・李陵(りりょう)と親交はなかったが、その人となりが立派であることを認めていた。

 

李陵が匈奴(きょうど:異民族)と戦って敗れ、降伏したとき、司馬遷は弁護した。これが武帝の逆鱗に触れ、獄に下されてしまう。

 

その一年後、李陵が匈奴軍から丁重に扱われ、しかも軍の教練している情報が伝わり、李陵の家族は皆殺しにされ、司馬遷連座し死罪の判決を受ける。


当時は、大金を払うか腐刑を受ければ死罪を免れることができた。腐刑とは、宮刑のことである。下半身が腐臭を放つため「腐刑」と呼ばれていた。大金を払う見込みがない司馬遷は、「死」か「腐刑」かどちらか選ばなければいけなかった。

九牛の一毛

司馬遷は獄中において、自殺を考えた。腐刑を受けることはこれ以上ない屈辱だ。獄吏の扱いも司馬遷を苦しめていた。自分が処刑されたとしても支配者にとっては「九牛の一毛をうしなう」にすぎない。虫けらが死んだのと同様である。

しかし、李陵事件の前から、「史記」の著述をはじめていた司馬遷は、父の遺言を思い出す。

 

明主賢君、忠臣、節義に殉じた人士などのことどもを、わしがいま太史となっていて史籍に記録できなければ、天下の史文を消滅させることになるのだ。わしが気にかかるのはこのことだ――『史記 太史公自序』

 

父は、その志を成し遂げるまえに病没した。そして今、父の事業を継ぐべき自分が死んでしまえば、偉大な人物たちは記録されず、忘却されるだろう。
このとき歴史上の人物が、迫害を受け辱められながらも、一念発起して大事業を成し遂げたのを想い起こした。自分一人の小事を忘れ、偉大な人物たちの記録を後世に残さなければ、と思ったのである。そして腐刑を受ける決断をした。

生きながらえた司馬遷は発憤し、不朽の大業を成しとげる。
史上の人物に励まされ、「史記」を完成させることができた。だからこそ「史記」には、人びとを感化し、あるいは発憤させるエネルギーが宿っているのだろう。

 

参考資料:

史記入門 (中国古典入門叢書 8)

史記