王陽明と夢の逸話
前回の記事では高杉晋作が見た夢の逸話を書きましたが、今回は王陽明と夢の不思議な関係について紹介します。
生誕に関する逸話
安岡正篤氏編の『伝習録 (中国古典新書)』によれば、王陽明は14ヶ月も母の胎内にいたそうです。そんなある夜、祖母が不思議な夢を見ます。
緋宝玉帯の神人が五色の雲中より音楽の先導で、一児を抱いて現れ、この子を御前に授けるといった。祖母は、自分にはもう子があります。私よりも幸いに嫁が孝行してくれますからどうか佳い児を得て子孫としたいものでございますと答えたら、神人は、これを諒承してくれた。『伝習録 (中国古典新書)』
赤子の泣き声によって眼が覚めた祖母が中庭のほうを見ると、嫁が赤子を出産していたそうです。そのとき祖母の耳底には、夢で流れていた音楽が響いていたとか。この不思議な夢の話を聞いた祖父は、この赤子に「雲」と名づけたそうです。
しかし「雲」は五歳になっても口をききません。そんなとき、「雲」のそばを通りかかった神僧(神秘な法力を持った僧)が、「好い児だが、可惜道破(おしいかな、道やぶれる)」と言います。
可惜道破とは何の意か、道はもちろん言う、語る、説くことであるから、秘しておけばよかったのに、惜しいことに言ってしまったということであろうか。『伝習録 (中国古典新書)』
つまり五色の雲中から「雲」と名づけたことを神僧は惜しんだのでしょう。祖父はそれを聞いて、「雲」の名を「守仁(しゅじん)」に改めたそうです。
すると守仁は、祖父が読んだ書をすらすら復誦するようになります。祖父が、「どうしてそれができたか」と問うと、彼は、
「お祖父さまの読書を聞いて、口では言えませんでしたが、ちゃんと暗記しました」と答えたそうです。
苦境におちいり開悟する
後年、守仁は進士に合格して官吏となるのですが、宦官の逆鱗に触れたため配流(はいる)されます。流された先は、書物を入手できない未開の地。落胆しつつも、「歴史に名を残した聖哲だったら、この状況をいかに乗りきるか」と、思索に撤したそうです。
そしてついに大悟します。
一夜霊感があり、夢現の間に人あって語るがごとく、多年の疑団が氷塊して、彼は大声を発して躍り上がって狂人のごとく、従者みな驚いた。彼は始めて真理というものは我が外にあるものではなく、我に内在するものであり(良知)、我をおいていたずらに理を事物に求めるのは誤りであることを知って、暗記している五経の言に徹してみると、いちいち吻合(ふんごう)せぬものはなかった。
書物によって人格が形成されるのではなく、行為によって人格を鍛え上げるべきとする「事上磨錬」という確信が導きだされたそうです。一説には、このときの夢に孟子があらわれ「良知説」を説いたといいわれます。
守仁、つまり王陽明は、「事上磨錬」を戦場のなかでも実践していきます。彼は、学者であるだけでなく、将帥としての能力も備えていて、「文臣として明代を通じ武功第一」と称される活躍をして、叛乱を鎮定するのです。
そして日本へ
彼の説いた教義は「陽明学」として日本にも伝えられ、とくに幕末の志士は大きな感銘をうけています。
上海で筆話したとき高杉晋作は、「王陽明を敬慕する者なり」と表明することもありました。それほど傾倒していたのです。高杉晋作だけではなく、師の吉田松陰、あるいは西郷隆盛、河井継之助、山田方谷、春日潜庵……と、「陽明学」に影響をうけた人物は数えればきりがないほど。抽象的な朱子学にたいして簡易直裁であることも一因だといわれますが、それ以上に王陽明その人の偉大さが、志士を推服させたのかもしれません。