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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

歴史を知ることは無駄ではないか

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photo credit: gualtiero via photopin cc

「歴史を知ってどんな意味があるの?」
「実際にはつかえないことじゃん」
 歴史が好きだといえば、そんなふうに言われることがあった。(もちろん一部の人だけど)。

 多くの思想家、哲人がアンサーをだしているけれど、ここでは自分がせつに感じていることを。

思考をこえる感激

 こんな意地悪な質問をされたことがある。

「十字軍の遠征が行われたときに、日本の年号は?」

歴史が好きならわかるでしょ、という口吻だった。

 僕は、知らない、とこたえた。実際、知らない。
「それじゃあ君の場合、ビートルズが好きらしいけど、彼らは何年に結成して、何年に曲を発表したのかわかるかい?」

と、今度は僕が訊いた。

「さあ、わからないな。ビートルズの全盛期に生まれてないし、曲の良さで好きになったんだから」
「それと同じだよ。名曲に感激をうけるように、自分は歴史人物に感激する。だから、好きなんだ。年表を暗記することは好きじゃないね」

 感激というのはとても大事だとおもう。

 感激したとき、雷にうたれたような表現がもちいられる。僕にも、そんな経験がある。実際、瞬間的にショートしてるんじゃないかな。知識と経験をフル動員しても凌駕する対象にぶつかると、ちょっとした混乱におちいる、いろんな信号がシナプスを駆け巡って過熱してしまう、と。

 自分の頭をこえている、となれば頭上にある偉大な力を描く。それで天から雷がおちたようにイメージする。それを利己的に解釈すれば、天啓とおもえる。また、それによってクリエイティブになるならば天啓といっても間違いじゃないはず。電流となり、行動が促進されるわけだ。

 

 ナポレオンはカエサルに感激し、カエサルはアレキサンダーを意識していた。古人に触発されることもある。感応することもある。大きく作用すれば、その業績をひきつぐことになる。また作用が少ない場合でも、それによって自分の内面が渇望しているものが見出せる。

 

自分を知る

 もちろん歴史を学んだからといって、過去の人物の偉大さに近づけるわけじゃない。偉人が行っていた習慣に従ったとしても万里のへだたりがあるかもしれない。
 顔、性格、体質、体格それら人それぞれ。だからあらゆるものの作用が異なるのは不思議じゃない。

食事を考えればわかりやすいかもしれない。
 僕の先輩に、アボカドと納豆と生クリームを混ぜたどんぶりが好きな人がいる。受けねらいかな、と思っていたけど、食べているときホントにおいしそうな顔をしている。
 この先輩にあこがれて、おなじものを食べたとしても(間違っても自分はしないが)、あるいは数ヶ月食べ続けたとしても、この悪趣味などんぶりは好きになれないとおもう。

しかし、ちょっとトッピングを変えることで、自分にとって至福の味わいとなるかもしれない。

 歴史もそういうものだろう。

 なにがどう自分に作用するかを見究める。自分に適したモデルを見つけ、参考にしていく。もちろん、すべてが合致するわけではない。その都度修正する必要がある。歴史を註釈として行動する、という言葉がうまれたのは、この観点からじゃないかな。また、それが「自らを知る」ことになるのではないか。そんなふうに僕は考えている。