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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

中井弘と桐野利秋

幕末・維新

中井弘(ひろし/ひろむ)は薩摩出身の人物としてはかなり風変わりな経歴で、面白い逸話が豊富な人物である。しかも彼は桐野利秋に認められ、桐野の庇護を受けていた。そのため彼の伝記『中井桜洲』には、あまり知られていない桐野の人間味や中井に利用されたことなど意外なエピソードがある。「嘘八百な中井」といわれることもあるので、中井の言葉をことごとく信じるわけにはいかないが、桐野利秋を考察するうえでひとつの材料になるとおもう。

二人の出会い

中井は16歳のときに家を飛び出し関所を破って江戸に上り、22歳のころ捕縛されるが、文久2年(25歳)に解放されると再び脱藩。土佐に渡り、坂本龍馬後藤象二郎に認められ土佐藩の客分となり、後藤の支援で洋行、慶応2年に帰国しふたたび国事に奔走する。

 

この頃京で桐野利秋(当時は中村半次郎)と出会い、即座に意気投合した。

桐野が提灯持ちになって中井を救う

中井は薩藩を脱藩し、しかも他藩で暗中飛躍していたこともあり薩藩士から白眼視され、暗殺が企てられたこともある。このことを耳にした中井は、すぐに桐野に相談した。すると桐野は、

「よし、俺が一緒にいってやろう」

と、襲撃が計画されている地に同行した。そこに着くなり中井は提灯を桐野に渡す。そして放尿しながら、

「俺を暗殺しようとする者があるそうだが、暗殺するなら暗殺しろ、田中幸介(当時中井が用いていた名)は決して逃げ隠れはせぬ」
と声をあげた。

 

それを聴いた刺客たちが木陰から窺ってみると、無防備に放尿している中井の隣で人斬り半次郎が朱鞘の大刀を横たえていたため、肝を潰し、あわてて逃げ去ったという。

 

明治以降の関係

外国官判事拝命と帰郷

明治元年、外国官判事に任命された中井は、フランス政府の担保となっていた横須賀製鉄所を取り戻し、アメリカ政府が幕府のために建造した甲鉄艦東艦を新政府で買い取る交渉を成功させ、さらには旧幕勢力追討の資金を三井から支出させるなど、新政府のために働いていた。しかし戊辰戦争から凱旋した薩藩の武官と意見があわず辞職。その才腕を評価していた大久保や伊藤、大隈らがしきりに説得したが、それを聴かずに帰郷してしまった。

 

牧野伸顕回顧録 』にはつぎのように書かれている。

戊辰戦争で活躍した)軍人の多くは、戦争では手柄を立てても、鎮定の後平和の機構運用の時期に入っては、皆が役人として有能な訳ではなく、従って取り立てられず、結局その大部分は所を得なかった。(中略)
 役人になったものは皆東京に行き、出世しなかった不平党ばかりが鹿児島に残った。その頃中井弘蔵(中井弘)という人がいて、これは格別に働きはなかったが、世才のある人で交際が広く、維新の元勲らの知遇を得て工部省の役人になったが、あの中井が役人になる位なら、という訳で同郷人の間ではすこぶる不評判だった。それで中井は職を辞して国に帰り、頻りに桐野利秋らに馳走したりしてその感情を柔らげることを謀り、評判を取り直した後再び東京に来てまた役人になった。

 伝記には、桐野らに馳走したという記述こそ見当たらないが、穏便に済ませるように根回ししていたことは十分に考えられることだ。あるいは事実ではないとしても、第三者からは上記のように見られていたわけである。

上京

ふたたび上京した経緯について、伝記ではつぎのように書かれている。

明治4年3月には上京する決意を固めていた中井は、常備兵四大隊を率いて上京する西郷の一行に加わろうとしていた。そのことを西郷に申し出たが、

「おはんの行きやるときでなか」
と反対されてしまう。

西郷は中井を評価していなかったし、それを知っている中井も強いて西郷を説得しようとはしなかった。西郷のもとを辞すと、その足で桐野を訪い、西郷にかけ合ったが拒否されたことを打ち明け、

「薩摩人の中でも、西郷どんほどの人はいない。西郷どんは神様みたようなもんじゃで、西郷どんの言うことなら、誰も容喙できんでなあ」
と西郷を賞賛する。続けて他の薩摩人は大馬鹿で西郷に頭もあがらないと嘲罵し、
「おはん(桐野)なんかの言いやることなど、聞き入れる西郷どんじゃ無か」
と、たとえ桐野でも西郷には意見できないだろう、と反発を煽るようにまくし立てる。

抜山蓋世の英雄を自任している桐野は憤然として立ちあがり、
「よしそれなら俺が行って談判しよう」
と西郷の下に立つ人物ではないぞ、という意気を示して西郷のもとをむかった。もちろん中井の思い通りだった。

 

桐野は戻ってくるなり、
「オイ休之進(中井の幼名)、俺が連れて行くと言ったら、西郷どんはよかごつ頼むといいやった」
と言い、こうして1年前までは外国官判事だった中井が、こんどは桐野配下の一兵卒として上京することができたという。

兵営を去って官職に就く

中井の上京はたちまち話題となり、市ヶ谷の兵営には中井を訪問する者が相次いだ。しかも座布団や火鉢、絹夜具、菓子折が贈られ、酒食を持参して宴をひらく者もいた。これには薩摩出身の貴島清や村田新八、永山弥一郎、別府晋介篠原国幹、辺見十郎太らは不快感をあらわにし、
「中井は一兵士ではないか、それが桜の間に起臥して、美酒佳肴に飽き、絹夜具なんか着て寝ているなどとは、不届き千万」
と憤っていた。そこで西郷は桐野を呼び、
「これだから俺が、中井を連れて来まいというのを、おはんが強て言いよるから、詮方なしにおはんに一任したのだが、このままにしておいては、軍紀に触れる。早く処置してくれ」
と言った。さすがに桐野も参り、中井に伝えると、「兵隊さえ辞めてしまえば何も苦情はあるまい」とすぐに辞職してしまった。


それから間もなく兵部大録に任ぜられ、周りを驚倒させた。実は中井が上京したとき、その才腕を評価していた大久保らによって、廟議で官職に就かせることを決定していたのだという。その後、権少外史に進み、左院議官に栄転している。

明治六年の政変以後

明治6年、征韓論が破裂すると西郷が下野し、それに続いて八千の子弟もことごとく東京を去った。

桐野も帰郷した一人であり、中井にも帰郷を促していた。しかし中井は、「西郷党とは、そりが合わぬ」と応じなかった。

 

そのうえ中井は、
「西郷の真意のあるところを突きとめないで、ついて帰国したものは、みなバカを見るだろう。あとに残った野津や高島は、悧怜(りこう)者だ」
と語っており、西南戦争後には以下のように西郷と桐野を評している。

「西郷吉之助は軍人でない、戦さなんか知らなかった。10年の役でもわかるだろう。何といっても薩の兵学者は、伊地知正治より外にない。西郷はどちらかといえば、まず政治家の方で、廟堂に立って、大政を整理する手腕に至りては、到底大久保に及ばぬ。征韓論をひっさげて、時局の転換を強いたのは、畢竟はじめから出来ない相談を持ちかけて、これを機会(しお)に、桂冠して去ったので実に『己を知るの明あり』というべしだ。他からこれを見ると、いかにも西郷は、不満のようなれど、その実は決して然らずだ。俗にいう両雄並び立たず、西郷の身を退きしは智というべく、しかも桐野に擁立されて、兵を挙げたのは、万やむを得ざるに出でしものならん。丁丑の乱を起こした人は、西郷でなくて桐野だ。世人はややともすれば、桐野を目して、篠原と一対に西郷の股肱のように思うのは、大間違いだ。桐野は、西郷の子分でもなければ、西郷は桐野の親分でもない。桐野は、ただ一個の棟梁株なのだ。身は鹿児島城下の士族でなく、吉野唐芋にすぎない。薩の桐野といえば、軍人仲間はもちろん、どんな剣客でも、三舎を避けるというくらいであった」

この分析が的を射ているかはさて置き、桐野利秋に親炙し、西南の役を予見していた者が「桐野の乱」だと断言していることは注目に値する。そして行動こそ共にしなかったが、桐野はもちろん、自分を苦しめた西郷党への同情も終生失わなかったようで、城山陥落のときには同情一掬の涙を落とした。そして彼は、
「生涯三位以上の官位は、泉下の彼等に対しても貰わぬ」と口癖のように言っていたが事実そのとおりだったという。

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