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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

桐野利秋が「人斬り半次郎」として畏れられていたころの逸話

中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、当時その名を知らぬ者がいない存在だった。

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白柄朱鞘の和泉守兼定を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放つ。それにくわえて「人斬り半次郎」の異名が男たちに恐怖を与え、女性を妖しい魅力で惹きつけていた。

 

中村の剣術

”中村の一手打ち”は新撰組や粗暴な浪士すら震え上がらせるほど強烈だった。しかも中村はほとんど独力で一撃必殺の太刀捌きを身につけている。

 伊集院鴨居のもとに通ったといわれるが、そこでは小示現流の手ほどきを受けたにすぎない。彼の一家が貧苦にあえいでおり、昼夜となく耕作し、紙を漉(す)かねばいけなかったため彼は「吉野唐芋、紙漉武士」という侮蔑をこうむったのだが、闘争心を奮い立たせ、寸暇をぬすんでは樹木に木刀を叩きつけて剣技を磨き心胆を練った。

 

そうして彼は小松帯刀西郷隆盛に認められる存在となり、京へ出る。その頃から「人斬り半次郎」と呼ばれるようになるのだが、中村半次郎がどれだけの人を斬ったかは明らかになっていない。が、このころ中村が剣の腕をあげる秘訣について、

「ひと月に一人ずつ斬れば、日々剣法を学ぶにまさる」と放言していたという逸話もあるのだから、相当な数を斬ったのだろう。中村と親しかった中井弘は、

「中村は斬ると言えば、必ず斬る」と証言している。

 

 

後年、毎晩のように中村が悪夢にうなされるので、妾が揺り起こすと、

「某所で斬った奴が血みどろになって挨拶に来た」

と言ったともいわれる。それを聞けばおそしくなって妾が逃げ出すので、次々と妾ができても、居付くことはなかったとのこと。もちろんこれは「人斬り半次郎」に付随している伝説であって事実か否かはわからない。

見事な斬殺 

中村が斬ったことを明かしている存在もいる。彼が慶応三年に書きとめていた『京在日記』に「赤松小三郎」を斬ったことが記録されている。赤松は砲術師範として薩摩藩に雇われていた人物。中村も赤松から砲術を学んでいたが幕府側の間諜の疑いがあるため薩藩士田代五郎とともに暗殺している。

 

赤松の暗殺については有馬藤太の談話『維新の片鱗』でも触れられ、やはり中村と田代が実行犯だと明言している。有馬の語るところによれば、中村の殺気を看取した小野強右衛門(剣術師範)が、中村を制止しようと追いかけた。追いついたとき斬りかかる瞬間だったが、中村の鮮やかな太刀さばきに感服してしまい阻止できなかったという。

 

中村と田代が実行犯だと知るものは有馬と小野だけであり、師匠が殺されたといって仇討ちを企てる薩摩藩士(野津鎮雄など)もいたが、結局下手人が掴めずにおわったという。痕跡をとどめないことにおいても、下手人と悟られないことにおいても中村は巧妙だったのだろう。これはつぎに述べる用心深さに通ずるものがある。

用心深さ

彼は剣の腕のみに頼る匹夫ではなかった。ほんのわずかな時間であっても一人で出歩かない用心深さがあり、こうしたところからして無謀の勇を誇る壮士輩とは異なり、後年の陸軍少将にのぼりつめたことは不思議なことではなかった。(東郷嘉一郎談)


前出の有馬藤太は無二の親友なのだが、彼が会津藩士二人に囲まれたときですら中村は姿を見せず、有馬が一人を斬り払い、もう一人が逃げたあとから出てきて、
「実はさきほどからあの店先で見ていた。お前のことだから下手なことはしまいが、危うくなれば助太刀しようと様子を見ていたのだが、お前の今の早業にはまったく恐れ入った」
と言ったということである。

彼はこのように用心深く、しかも余裕綽々としていた(無論、有馬が危地に陥っていたら彼は例のごとき早業で片づけていただろうが)。彼が「人斬り半次郎」で終わらず「陸軍少将桐野利秋」となることができた一因がここにある。

 

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