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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

天性の偏屈ーー高杉晋作

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photo credit: maaco via photopin cc

 

「俺は人の好き嫌いが激しい。相手の器量によって言動を変えてしまう」ということを晋作は手紙に書き、

「剣術は得意だが、天性の偏屈さのせいで上達が妨げられている」と、剣術修行中の日譜に手記していた。

 一つ年下のライバル久坂玄瑞には衆を容れる器がそなわっていた。それで晋作は、負い目を感じていたのかもしれない。

 もっとも久坂にも傲慢で尊大な言動があった。その短所は、吉田松陰の教化によって改められ、「よく部下の意見を容れ、衆知を集めて決断敢行したから、誰もが久坂に心服した」(林田槇之助『高杉晋作・久坂玄瑞 (叢書・日本の思想家)』)といわしめるまでになった。


 晋作は矯正したくない
 

 吉田松陰は、
「高杉をどう思うか」と、桂小五郎(のちの木戸孝允)に意見を求めた。
「俊邁な少年だ。ただ、惜しいことは、少し頑固な性質がある。将来、おそらく人の意見を容れないだろう」
と、言い、その点をただすべきだとした。
 そのことは承知している、と認めたうえで松陰は言った。
「高杉は、他日必ず為すある人物と信じている。今みだりに性質を矯正したならば、彼の天賦の力が発揮できなくなる。そうなってしまっては、人の意見を聞くようになっても、その言葉をあてにしないだろう」

 矯正したことで、雄大なところがたわめられはしても、欠点を取り除くことはむずかしい、ということだろう。

そして、続ける。
「十年のうちに、もし自分が功を為すことがある時には、高杉と相図るつもりである。その時に、彼は必ず、私より優れたところがあるだろう。(欠点を補完しあうように)二人相救いあえば、決して大過は無いと期している」
 そのとおりだ、と桂は首肯した。

 松陰はこのやりとりを入江九一に手紙で伝えた。半年後、「安政の大獄」によって松陰は還らぬ人となった。

入江の苦心

一部の志士を弾圧した「安政の大獄」は、多数の志士を反発にしむけさせた。そして、因果応報と見なされかねない最期が井伊直弼を襲う。

 高杉晋作奇兵隊を創設したのは、その三年後。松陰の死からは四年後のことでした。

 そのころ晋作を一番に支えたのは入江九一
「高杉の英名と入江の着実とは、連壁だといわれた。高杉の奇兵隊が活動し得たのは入江の力が与って多かったのだ」(横山建堂『高杉晋作』)

 晋作は兵営の外に泊まることが多く、また馴染みの美人と相合い傘で陣中に入ることもあったそうです。こういう不羈奔放な晋作に代わって、入江はいろいろ苦心したのでしょう。

 偏屈だった晋作が、才力を縦横無尽に発揮しえたのは、松陰がそのスケールをたわめなかったことによる。松陰亡きのちに、晋作の欠点を補完していたのは入江や桂だった。松陰が果たせなかった役割を、担っていた。松陰の心遣いは、晋作の活躍をどこまでも支えていたのだろう。

 

 

高杉晋作 (人物叢書)

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