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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

山岡鉄舟と清河八郎の首級

文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1

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清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。

 

周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検視の役人を到着を待っている状況であり、清河の死体には近づくことは容易ではない。

 

そこで石坂はひとつ芝居を打つ。「これは何人であるか」と訊ね、町役人が「清河八郎なり」と答えると、周造は突如抜刀し、「年来探し求めた不倶戴天の敵清河八郎め」と怒声をあげ、瞬く間に清河の首を斬り落とした。

 

それを見た町役人が慌てて駆けよると、周造は紅く染まった刀を振りかざして睨みつけ、「わが仇討ちの邪魔をするならば、汝等もまた敵の一味、鏖(みなごろし)にしてくれん」と威嚇。

周造の形相の凄まじさに町役人が引き退がると、清河の懐裏から瞬時に連判状を取り出して逃奔した。

 

こうして無事に連判状と首級は鉄舟の手元に渡った。もしこの連判状が幕吏の手に渡っていたならば、鉄舟ら清河の同志は捕縛され、清河八郎の首も晒し首となっていたであろう。その後、清河の首級を奪おうとする狼藉者もいたのだが、鉄舟とその夫人(山岡英子)、高橋泥舟、石坂周造、鉄舟の末弟小野飛馬吉らの保護により掠奪を免れ、後日伝通院に埋葬、明治4年に清河の身内により郷里に改葬したとのことである。


清河の首級を保護した顛末について山岡英子の談話『女士道』と泥舟の『遺稿』に若干の相違が見られるので、伝通院に埋葬された詳細な経緯を知ることは難しい。そこで双方の述べるところ下に掲げる。

 

 又或時鉄太郎の知人で、出羽の生れで清川八郎と云う人が、嫌疑の為め、他の人から殺されて、首を取られましたが、其際に、只今私の妹婿なる石坂周造が其首を奪い取って来ましたから、私は其首を見て、こは清川の親戚知友の中から必ず首を尋ねて来る者があろうと思うて、其首を衣服に包んで、戸棚に収めて置きました、一旦はそうしましたが、何分にも夏の事とて、腐敗の恐れがありますから、鉄太郎の実弟、小野飛馬吉をして、首を砂糖漬にさせて蓄えて置きました。そうすると、狼藉ものが遣って来て、清川の首を出せ、という次第でありますから、飛馬吉をして、屋敷の裏を堀り、これを埋めさせて、狼藉者には、私が相手をして、刎(はね)つけて遣りましたが、それでも清川の首が、私の宅にあるという事を彼らが、何となく、承知したものと見えて、狼藉者の来ることが数々でありました、私は其都度応対して刎付けて遣りました。其の後私は伝通院に葬りて置きました、而して後年出羽より、清川の親戚が参りまして、其首を請求されますから、私が案内してそれを渡したことがありました。——『女士道:鉄舟夫人英子の談話』

 

 石坂周造速に正明が懐裏を探りて、重要の書類を収め、且つ首級を奪い、即夜窃に之を山岡に致す。鉄太郎石坂と共に之を携えて予が所に至る。予之を見て懐旧の情に耐えざるなり。直に鉄太郎及び其の末弟小野飛馬吉に命じて夜半密かに之を床下に埋めしむ。時夏期に属するを以て、臭気外に洩れて家人之を怪しむ。鉄太郎兄弟をして更に之を槍術道場の床下に移さしむ。亦復前の如し。後塵芥場の傍らに埋む。亦福前の如し。是に於いて予鉄太郎に謂て曰く、『予常に幕吏の為めに嫌疑を受く、若し此事露顕せば罪を得んこと必せり。好し罪を得るも、義のためには辞す所にあらず。予に悪意なし。天道夫れ之れを知らん。』と。又鉄太郎兄弟をして、山岡の邸内稍高き所を選び、地を掘るを五六尺にして之を埋めしむ。是より長く怪しむものなし。時至りて後、小石川伝通院境内、浄土宗処静院、淋瑞和尚(予が師なり)に請うて之を葬らしむ。明治四年、清川の実弟、斎藤誠明、処静院より骸髏を護し去りて、郷家清川に改葬せり。——高橋泥舟の遺稿(『高士山岡鉄舟』)

*1:下手人は佐々木只三郎、窪田泉太郎ら六名。