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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

佐々友房と肥後気質

副島種臣が養子にすることを望み、木戸孝允をして「後世恐るべしはこの子なり」と言わしめたほどの秀才だった佐々友房。もしも彼が東京に留まり副島種臣に薫育されたならば才徳兼備の一大人物になっただろう。あるいは、才徳兼備とまでいかなくとも、後年のような迷走はなかったはずである。しかし彼は風雲児たらんと欲して東京を去ってしまった。

佐々と西南戦争

西南戦争が勃発する明治十年、23歳だった彼は、横島村に隠遁していた池辺吉十郎を説得して首魁に戴き、その池辺ともに鹿児島に赴いて村田新八と黙契し、熊本士族の中核学校党を決起させるべく暗躍していた。

いわば佐々は、学校党を薩軍に加勢させた主謀者の一人である。それでいながら、どことなく煮え切らないところがあり、薩軍が進軍したあともすぐには応じようとせず、池辺に疑念を抱かせている。

佐々と品川

薩軍が熊本目指して進行していた2月18日、学校党は熊本県令の要請に応じて、熊本士族鎮撫の任にあたっていた。これは佐々の不在の間に行われたことで、佐々がこの一件を知ったの翌日のことだった。そこで佐々が、松浦新吉郎(のち熊本隊副大隊長)に問うと、松浦は微笑して「これ一時の権宜のみ」とこたえたという。これによっても佐々にかぎらず、当時の肥後人がいかに謀略を多用していたかが分明である。

このときの熊本県権令は富岡敬明であり、さらに政府から特派された内務大書記官品川彌二郎が県庁にいた。徳富蘇峰はいう。

 

熊本権令富岡敬明は、大腹漢である。横田弃(すたる)のごとき者をも、その属官に使用した。されば彼は品川と胥議(しょぎ)して、この謀反気沢山なる熊本県士族を綏撫する方便として、もしくは万一の時には一網羅拘する方便として、彼らに鎮撫方を託した。熊本士族中にもその首領株には、池辺吉十郎らあり、その中堅の壮年には、佐々友房らあり。いずれも魚心あれば水心で、アッサリこれを引き受けた。托する者も、托せられたる者も、いずれも胸に一心あったことは、申すまでもなきことだ。『近世日本国民史西南の役〈5〉熊本城攻守篇

 

近世日本国民史西南の役〈5〉熊本城攻守篇 (1980年) (講談社学術文庫)

学校党の目的は保護の名目で県庁を包囲して、彼等を捕虜にすることにあったという。

元来熊本人は思慮周到にして、容易に他より瞞着せらるる者ではない。同時にまた策謀を好む風あり、ややもすれば人の裏を好むの風がある。熊本県庁と、熊本士族の関係もまたその通りである。県庁では熊本士族を利用せんと欲し、熊本士族はまた県庁を利用せんと欲す。而して互いに知恵くらべをなしたるもののごとき状態であった。ただ肥後人はよく謀るもよく断ぜず、よく思うもよく行わず、最後手を下すの刹那において、遅疑逡巡し、その機を逸すること鮮(すくな)からず。この熊本県庁対熊本士族の立合いにおいても、また同様の性格が、十分暴露せられたるは、実に一興といわねばならぬ。ただ相手の熊本県庁側も、決して尋常一様の俗吏ではなく、富岡・品川らいずれも容易に熊本人の網に罹るほどのいわゆる「お人よし」ではなかった『近世日本国民史西南の役〈5〉熊本城攻守篇 

 

2月20日、佐々友房は壮士三十人余りを率い、県庁に入ろうとした。県庁側は疑念を抱いたが、佐々は巧みな弁論によって納得させ、壮士によって県庁を包囲することに成功している。

 

だが、さきに引用した蘇峰が述べているように富岡、品川は彼等の策略を見抜き、その翌日、
「今朝有栖川親王下見の報せあり、例まさに赴き賀すべし」と虎口を脱した。


このとき学校党の壮士輩は富岡、品川を血祭りに上げようとしたが、佐々が制止している。
「ただ肥後人はよく謀るもよく断ぜず、よく思うもよく行わず、最後手を下すの刹那において、遅疑逡巡し、その機を逸すること鮮(すくな)からず」
と蘇峰が述べたのは、このあたりの事情をいうのだろう。


のち佐々は延岡付近で負傷し、「寧ろ従容縛につき諄々素志を開陳(『戦袍日記』)」するため自首した。佐々が捕らえられると品川が彼にむかって、

「なぜ、あのとき己を殺さなかったのか」
と県庁から脱出する自分たちを見逃した理由を訊ねた。

すると佐々は、

「お前は少々吏才があるから、己が望みを遂げたときには、戸長に使ってやるつもりだった」
と返し、これには品川も二の句が継げなかったという。

保身

はたして佐々は、宿望を遂げたときのことを考慮して品川らを見逃したのだろうか。

多少は品川に語ったようなところがあったとしても、それ以上に薩軍が敗れた場合を想定し、品川らを見逃したのではないだろうか。というのも彼は頭の片隅から保身が離れず、そのため重大な局面において弱腰になることがあったようである。

また、西南戦争においても参謀に推されたにもかかわらず、自ら謙遜して小隊長にとどまったというが、熊本隊参謀以上の人物がことごとく斬罪に処せられたことから、「ここらの智慧は深き男だという評判もあった」(『人物側面観』)とのことである。しかも彼は、終戦間際に参謀になっていたが、負傷していたため参謀としての任務はこなせなかったと主張して、死罪を逃れたといわれる。


なお熊本隊を構成するとき、有能な人士は自分の部隊に組み込み、その他をもう一方の大将深野一三の部隊に入れたことから、その自己保身あるいは自己本位がいかに味方を苦しめたか察せられるだろう。

佐々はとかく自己本位の根性が抜けなかったようで、故郷の田舎紳士は籠絡しえたけれども、彼は一生、毛色のかわった天下異能の士を生けどることは不可能であった。『人物側面観』 

 

有耶無耶山人による批評

 

さきに引用した『人物側面観』の著者である有耶無耶山人は、佐々の欠点を指摘したうえで、以下のように述べている。

我輩肥後には親密な友人が多いから、彼等の気質をよくつくしているが、一個人として彼等に交わりを結ぶと、いずれも多少学問の根底もあり、かつ多少の何か趣味をもってなかなか面白いところがある。ただ惜しむらくはこれを用いる必要の無いところにも、濫りに権数を弄する傾きがあるようだ。(中略)
世間を見渡すに生まれ故郷の習気を洒脱した人間はまことに少ない。かといっていやに国風を洒脱した奴はなまこのように骨がなくて歯切がせん。流石の藤田東湖も水戸の習気があった。肥後の習気を洒脱したのは横井小楠ただ一人。それだものひとり克堂(佐々の号)を責めるのは少し酷堂じゃ。どちらかといえば克堂は肥後人の性格を円満に発達させたのであろう。

加えて、彼の先祖佐々成政の気象も受けついでいたフシがあるという。

佐々成政は武辺一方の男ではなった。林道春の信長記を読めば、彼がいかに政治の才に富んでいたかがわかるのであるが、好漢惜しむらく剛毅余りあり、持って生まれた才気がその身の仇となり、奇禍にあったのだ。妙なことに成政も克堂も53年の夢を見て死んだのである。

 有耶無耶山人については情報が少なく、どのような人物だったか不明ながら、その著書を読めば、佐々とは「条約改正案反対運動」で提携していた一人だったとわかる。しかし提携者以上の関係に進まなかったにちがいない。


「彼は座談がうまく、その猫なで声には誰もいったんは引っかかるが、ほどなく嫌気がさす」とは、有耶無耶山人の経験からきたものでもあるだろう。
そして嫌気がさす理由の一つは、
「思慮周密、万事に行き渡りすぎて、鷹揚を欠いたのである」と、いわば長所がそのまま短所にもなっていたと述べている。

 

同書には辛辣な皮肉が散見されるが、それでも「彼は天下有数の人傑なりと断言することを憚らないのである」と述べ、「彼がもし教育家または軍人として、余念なく一方に精力を集注したならば、国家の重宝となったであろう」と惜しんでいる。

 

もし、新島のごとき、福沢のごとく、死に至るまで一意専心育英のことに、憂き身をやつしていたならば、彼の人格いよいよ高く、彼が感化力の偉大なる、済々多士、佐々以上の逸物を打ちだして、今より以上の幾多の健児を対岸の大陸に植えつえたかもしれない。ああ、功名の人を毒すること古今皆然り、事ここに出でずして彼をむなしく、豪傑的才子の事業熱におわりを告げさせたのは、返す返すもかがりなきの恨事である。

 

肥後の気風

ペリー来航の頃「もののふは流石肥後つか、長門つば九曜の紋に一に三ツ星」という俗謡が流行したほど、肥後の武士は畏敬されていた。肥後藩は、加藤清正のような勇敢さに、細川家の文教政策による学識が備わる人材を輩出していた。他藩におくれをとるべき存在ではなかった。

 しかしながら『人国記』に書かれているとおり、議論が多く一致協力することがないため、維新の際に肥後藩は大功をあげることができなかった。

 

こうした気風の肥後に生まれ、成政に劣らぬ野心で叩きあげた佐々友房は早くから文武両道の逸材と注目されていた。しかし有耶無耶山人が指摘するように肥後の習気を抜け出せず、しかも彼自身の内部でも、風雲を渇望する野心と自己保身、教育家としての資質と味方も困却させた自己本位、頭領を仰がなければ何事もなせぬ器と世を風靡するにたる才幹など相反するものがあり、目的が定まらぬまま迷走していたのかもしれない。彼にせよ、肥後藩にせよ、一つの目的に全力を傾注していたならばと惜しまれる。

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