山岡鉄舟に投げ飛ばされた雲井龍雄
徳川慶喜が大政奉還したことにより、王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が樹立された。
この新政府にあって徳川氏の立場を弁護しつづけた一人が雲井龍雄であった。徳川氏が朝敵とみなされていることに憤慨した雲井は、上書して冤を訴えるも聞き容れられず、官軍東征の動きに反対して、人見勝太郎らと画策奔走、奥羽の諸藩を糾合して新政府軍に抵抗した。しかしすでに旧幕側の力は地に墜ち、米沢藩も降参したため事敗れ、禁固の身となった。
同志を集める
明治2年に集議院議員となるも異端邪説の徒とみなされ排斥され、集議院を去る。
そこで雲井は再び壮心を励まし、
「新たに捲土重来を策そう」と同志に語り、東京・芝の上行寺と円真寺の門前に『帰順部曲点検所』と大書した看板を掲げて、表向きは乱民鎮撫を理由としながら、実際には同志を集めて政府転覆を計画していた。
旧幕臣、奥羽の諸藩士など多数が呼びかけに応じると、雲井は旧幕臣の間で名望のある山岡鉄舟をその頭領に仰ぎたいと考え、駿府に閑居していた鉄舟のもとを訪問した。
雲井の罵倒と鉄舟の大喝
雲井は雄弁を揮い、薩長両藩を罵倒し、時弊を論じて鉄舟の同意を求めた。しかし鉄舟は口を固く結んだまま黙り、隻語も吐かない。
鉄舟の態度に激怒した雲井は、
「これほどに申しても一言のお答えもないのは、まさか唖(おし)になられたのでもあるまい。それとも木石か」と吐き出すように罵った。
すると鉄舟は大喝一声を浴びせる。
「黙らっしゃい」
そして威儀を正し説破する。
「さような企てに乗るようなこの鉄太郎ではない。今や維新の大業がようやく緒について、万民太平の春に逢はんとするに、何を思いて敢えて不軌を企てようとするのか。汝の如きこそ木石ではないか」
と言い終わらないうちに雲井の襟首を掴んで、座上に投げ飛ばした。体が小さな雲井は子猫のように飛ばされ、あわてて逃げ去った。
「自分は三寸の舌をもって幾多の豪雄の士を圧服したが、ひとりかの鉄舟のみは、心胆巍然(ぎぜん)、ついに動かすことができなかった」
とは、雲井が人に向かって語った言葉である。
また後年、鉄舟の門人が雲井の伝記を読み、非凡な人物であることに驚いて、
「雲井は果たして伝えられるような豪傑でありましたか」
と鉄舟に訊ねた。それにたいして鉄舟は、
「かなりの才子であったが、決して豪傑にあらず。まず例せば勝太郎(人見寧)に少々毛が生えたくらいのものであったろう」
と答えたという。