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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

山岡鉄舟の西郷隆盛評

佐賀の乱が起こった明治7年、山岡鉄舟は密命を帯びて鹿児島を訪れている。このとき西郷隆盛と語りあい旧情をあたため、昔と変わらず高潔な志を宿していることを知り、西郷が政府打倒など考えていないと確信した。

 

その三年後、事西郷の志と違って西南戦争が勃発すると鉄舟は肉食を廃し、猛暑のときも扇を用いることなく、戦争の苦しさを思って兵士達を憐れんでいた。

 

そしてときおり鹿児島方面の天を仰いでは、
「西郷未だ降伏せぬか。彼はもとより降るものでない。ああ東洋第一の人傑を失うのであるか」
と嘆じ、戦争が終結したときには両国で川施餓鬼(かわせがき)を行って、陣没の士のために追弔している。

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西郷隆盛を評す

西郷隆盛の伝記を読んだ門生が、

城山没落の際、破裂弾が四方から飛んできて、隆盛の頭上で破裂したけれど、隆盛は動ずる気色がなかった。

という箇所に疑問を抱いて、つぎのように鉄舟に訊ねたことがある。

「西郷の豪勇は知れておりますが、破裂弾が頭上に飛散することを意としなかったという部分は、記者の誇張ではありませんか」

 

それを聞いて鉄舟は大喝した。

「汝らは小人の心をもって英雄を見るがゆえにその疑問があるけれども、西郷は禅においては天地同体の理を悟了しておるから、どうして破裂弾などを恐れるというのだ。しかもこれについては修業を積んだものでなければ軽々には言われない。汝等もその境味を知ろうと思うならば、充分修業を積むが好い」

 

またあるとき、
「世人は西郷が先に忠にして、後に賊となりしを怪しむものがあるけれども、全体西郷は邪悪なる男にあらず。あまりに正直過ぎて物を信ずる性質なりしため、ついに賊名を帯びるに至ったのは、遺憾至極である。もし彼をして少しく私智に富みたる人ならしめたならば、かのごとき始末には至らなかったであろう。かかる例は古人にもいくらもある事である。ゆえにその跡方だけにつき、その人を論評するときには、大変なる相違を生ずるものである」
と人に語ったという。

島田一郎と長連豪の暴挙を嘆く

明治11年3月、鉄舟のもとに一通の斬奸状が届いた。そこには、
「天子の輔導を謬り、故西郷南洲翁の明を傷ける山岡鉄太郎を誅す」
と書かれていた。

 

鉄舟はこれを門生たちに見せて一笑に付していたが、それから数日して島田一郎、長連豪(ちょうつらひで)が鉄舟のもとを訪れた。

 

斬奸状はこやつらの悪戯だな、と察した鉄舟は、隔意なく談笑を交えて彼らを歓待した。すると島田一郎、長連豪はすっかり打ち解け、酒肴を持参して訪問するようになった。

 

彼らが「政府の高官の陰謀が西郷を決起させたのだ」と悲憤慷慨したときには、 西郷の心事を説明して彼らの不平を解くべくつとめていた。しかしその甲斐なく、彼らは大久保利通を暗殺してしまう。

 

それを聞いて鉄舟は歎息した。
「ああ徒(いたず)らに地下の西郷を困らせるのみだ」

 

参考:『高士山岡鉄舟』『近世名将言行録』

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