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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

薩英戦争の笑話(奈良原家に砲弾が当たった話など)——市来四郎談(史談会速記録)

生麦事件、またそれに引き続く薩英戦争によって薩摩藩は「攘夷の先鋒」や「攘夷のチャンピオン(芳即正氏の表現)」とみなされ、攘夷急進派からもてはやされたのであるがそれは実態のともなわないものであった。そうした藩内の情況については市来四郎が詳しく語っているので、前回と同じく『史談会速記録』から紹介したい。

市来四郎が母に謝罪した話 

市来四郎は、斉彬に抜擢され集成館事業に携わったほどの有能な人材であり、生麦事件以来の攘夷派の熱狂には苦々しい思いを抱いていた開明的な思想の持ち主であった。しかし、その市来ですら、イギリスが砲撃したとしても市街地にまで被害が及ぶとは想定していなかったようで、開戦の前々夜、母が戦争になるから逃げなければいけないというのに対して、「どんな大砲でもここまで来る気遣いはない」と言い聞かせていた。ところがいざ戦端が開かれると、軍艦の航路から二十町(約2キロ)離た市街地にも被弾したので、母からいじめられて市来は謝罪しなければならなかった。

 奈良原家に落ちた砲弾

それでその着弾した場所は、市来の家から二町(約220メートル)しか離れていなかった。しかもそれは偶然、生麦事件でリチャードソンを斬った奈良原清*1の家に当たったのだという。砲弾は奈良原の家に飛来して小座敷の軒を打ち壊し、さらに隣の質屋の蔵を壊した。それを目撃した婦女子は、「生麦で英人を殺した人だから、その祟りでそこに丸が来たのであろう」と言ったという。偶然ではあったが、英艦の砲弾が奈良原の家に直撃した可笑しな話として市来は語っている。

開明の刺激薬となった薩英戦争

 このような市来の話を聞いたあと、寺師宗徳*2は当時を回顧して、ある策士が英艦を顛覆させる策があると言い、水を入れた大きな樽を流して英艦に引きあげさせれば桶(?)が浮くから上の船が引っくり返るであろう、と主張したことを語っている。この策が荒唐無稽であることは言うまでもないが、これは当時の西洋文明に対する認識がその程度であったことを物語っている。それで市来四郎は、「此の戦争は今にして考へると、大損亡は無論、馬鹿な戦争と人は見もしましせう、私も一寸はさう思ひますけれども、此の事は大変開明の刺激薬だと考えます、夫れからして一般の思想が進んだのでございます」と、無謀な戦争であったが攘夷家を啓蒙するためには意義があるものだったと述べている。

 

たとえば薩英戦争前の大久保利通「真の攘夷家」で外国人といえば唾を吐く様であったらしく、中山中左衛門とともにスイカ売り(果物売り)の策などをたてていた。そのことは前回の記事でも軽く触れたとおりである。しかしこの戦争の結果に懲々して、和睦せねばならぬという意見に変わったという。そういえば以前記事にした渡辺国武の話にも、大久保が30歳前後*3のころを回顧して次のような教訓を垂れたことがあったと紹介した。

 『……私なども君の年頃には随分詭激突飛なことをやったものである。人は途方もないところで、途方もないことを云わるゝものである。

 私が薩摩の藩庁に出仕していた頃、英国の軍艦がやって来たので、それを偵察するために倉の屋根に上って、見ている中に、雨上がりで瓦に滑って転んだところが、大久保は平生詭激な議論はやかましくするが英国の軍艦を見て腰をぬかしたなどと評判せられて、大いに迷惑したことがある。何事も深沈重厚、県民の依頼心を一身に集めるように心がけねばならぬ。それが政治の秘訣である。君のためにはよい修業である』

——『甲東逸話』

 

これを読んでもわかるように『詭激突飛』な議論をする大久保も先進国の文明の前に屈しなければならなかった。大久保にかぎらず当時の藩政にあたっていた要路者の国際情勢に関する知識が乏しく、またそのために推測が甘く、このような滑稽な役割を演じなければいけなくなったようである。

 

出典:『史談会速記録 合本2』「第11輯 文久三年七月鹿児島に於て英船と戦争の事実附鹿児島に於て戦争と決し準備を設けたりし事」

 

*1:奈良原喜左衛門。奈良原繁の兄。下手人については諸説あり

*2:市来四郎の甥。市来とともに史談会を運営。

*3:薩英戦争のころ大久保利通は34歳