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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

薩英戦争前の薩摩側の奇襲作戦

文久2年8月21日、生麦事件が起きた。これは大名行列の前を騎乗したまま横切ろうとしたイギリス人数名を衛士が斬りつけ、そのイギリス人のうちの一人リチャードソンが奈良原清*1によって斬殺された事件である。

イギリス政府は、幕府に謝罪書と賠償金10万ポンド、薩摩藩に下手人の逮捕処分と慰謝料2万5000ポンドを要求した。幕府はその要求に応じたが、薩摩藩は拒絶。そのため生麦事件から10ヶ月経った文久3年6月27日、英艦七隻が鹿児島湾に侵入した。無論これは戦争を目的としたものではなく、交渉を有利にすすめるための威嚇にすぎなかったが、英艦の戦備は当時攘夷の熱狂にとりつかれていた薩摩藩士は大いに刺激した。

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後年の市来四郎の談話によれば、このとき奈良原清や海江田信義などは刺客を用いることを主張したらしく、また当時、薩摩藩政府中枢にいた中山中左衛門や大久保利通が「真の攘夷派」であったこともあり、刺客を用いる策が決行されることになったという。

 

イギリス人を上陸させて刺殺する計画

最初に実行されたのは、イギリス人を上陸させて刺殺する計画だった。そこで賠償問題で交渉しようとしたイギリス側に「国守は霧島の温泉にいって居る」と伝え、重大な事件であるため会議は長引くであろうから、「往復十日ばかり経たなくては返答はできない」と交渉にかなりの日数がかかることを告げた。距離的にそれほどの日数がかかることはありえない、とイギリス側は地理上から論じて訝しんだが、どうにか誤魔化して、ともかく日数がかかる、それでその間退屈であろうから客舎で歓待する、ということをイギリス側に提案した。しかしイギリス側はこれを、「決して退屈ではない」と拒絶。そのため第一の計画は頓挫することになった。

 

スイカ売りに扮した抜刀隊

 

第一の策が失敗に終わり、次に計画されたのは「スイカ売り」の策であった。これは奈良原が発議し、小松帯刀大久保利通、中山中左衛門に迫ったものだった。久光は「寧ろ堂々と戦うがよい、戦って勝敗を決するがよい、そんな卑劣なことを致さずともよかろう」とこの策に反対だったが、中山や大久保が強く主張したため実行に移された。そこで人員を募集すると80人ほど集まり、その人々を七艘の小舟に乗り込んで、スイカや桃などの果物を載せてイギリスの軍艦に売りこみに行った。果物売りに変装した人々のなかには西郷従道大山巌東郷平八郎などもおり、全員が刀を差していた。軍艦に乗り込んだら長官の部屋に斬り込み、その後軍艦を乗っ取り、それに成功したら大砲を放って合図を送る作戦だった。

この七艘のうち、奈良原が乗っていた一艘は乗艦することができたが、甲板より先に進むことは許可されなかったため長官の部屋には行けなかった。それで甲板のうえで斬り込むわけにもいかず、むなしく引き取ったという。

 

後日、イギリスの新聞には「商人が乗ってきたが、その顔色を見るといずれも殺気を含んで、何か事を為さんと察して船に載せず、船内にも通さなかった」と載っていたらしく、市来四郎は「相手はその顔つきをみて察していたと見える」と語っている。

 

出典:『史談会速記録合本4』「第20輯 故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附二十九話」、

*1:喜左衛門。下手人については諸説あり