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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

示現流について——東郷実政談(史談会速記録)

今回は『史談会速記録 合本22』の第151輯「東郷実政君の示現流剣法の由来附十六話」から、示現流にかかわる逸話を紹介したい。

 

    東郷実政君略履歴

東郷実政君は通称六郎兵衛鹿児島県出身にして祖先以来旧藩主島津侯に仕へ世々示現流の武術師範たり君少壮家流の技に達し長して藩内子弟を教導し藩職を歴事して勤労多し維新の戦役に当たっては一隊の監軍となり越後口に向かはれ戦後江戸に凱戦せられ朝兵の指揮を掌とられしか後帰国あり尋て朝に仕へ警察の職を歴任せらるゝこと十数年に垂んとす又鹿児島警察部長に進み幾もなく官を辞せられ今健在年六十七

 島津家久示現流

示現流は、古くは”自顕流”と書いていたが島津家久(初代藩主)によって”示現流”に改められた。家久が初名である忠恒を名乗っていたころ、文之和尚に筆を執らせたといわれる文書があり、それによれば「示現神通力」からとったとしている。改名させた詳しい事情についてはわからないが、あるいは白洲正子氏が書かれたつぎの文章のような理由があったのかもしれない。

 ……示現流は、はじめ「自顕流」といった。桃山時代に京都の寺でひそかに行われていた剣道で、薩摩藩士の東郷重位が苦心惨憺して鹿児島に伝えた流儀である。

 ところが血の気の多い兵児二才の間では、「自顕」を自分流に解釈して、前後の見境いもなく自分を顕せばいいのだろうと、勝手気ままな振る舞いをするようになった。もともと受ける太刀はなく、斬る太刀だけが命の剣道のことだから、「気ちがいに刃物」もいいところで、しめしがつかなくなったのである。

 そこで当時の藩主、島津家久が、大龍寺の文之和尚と相談して、重位に命じて「示現流」と名を改めることにした。これは観音経の中にある「示現神通力」からとったもので、神仏が此世に姿を現す意味である。家久自身が剣道の達人であったから、勢のいい若武者たちもいうことを聞いたに違いない。——白洲正子著『白洲正子自伝 

島津斉興と示現流

薩摩藩歴代藩主のなかで示現流を皆伝されたのは前出の島津家久と第10代藩主島津斉興のみだった。島津斉興は17歳のとき、江戸高輪藩邸で東郷六郎兵衛実守のもとで示現流の稽古をし、嘉永元年になって「実守の兄東郷藤兵衛実位より御皆伝までなされた」。そうしたことがあり示現流を「大変御手厚く御取り扱」い、示現流を御流儀と称えるようにと仰せられたという。ただしこれは斉興一代限りのことであった。とはいえ東郷家は、藩祖家久を指南したことなどもあり、第8代藩主重豪の時代に稽古場(演武館)が造られたとき、東郷家のみ稽古場に部屋があり、他流のものはその部屋に入ることは許されなかった。このように藩から特別の待遇を受けていたことは事実だったという。

 

 斉彬と示現流

斉彬については、「何か(武術を)為されたらうがぞんしませぬが示現流は為されませぬ」と示現流の稽古はしなかった東郷実政は述べている。しかし、芳即正氏の『島津斉彬』によれば示現流も学んだとある。

文政五年ごろから種子島六郎に鏡知流槍術を、同七年十六歳のときから剣法を柳生但馬守俊章に学んだが、二十五歳のとき柳生門をことわり薩摩藩独特の示現流を学んだ。——芳即正著『島津斉彬 (人物叢書)

 あるいは藩主になってからは示現流の稽古はしなかったということなのだろうか。ともかく斉興のように皆伝とはならずとも、臨時に二ノ丸の稽古場に子弟を召集して稽古を見分したので、人気(じんき)が余程奮ったという(『史談速記録151輯』『史談速記録153輯』)。

島津斉彬 (人物叢書)

 

 

稽古の心得

 

寺師宗徳が稽古の心得あるいは流派の眼目を問えば、東郷実政はつぎのようにこたえる。

 それを言って見れば逆なるものを忌む順なるものを養ふ主意で、逆抜きを忌む逆抜を忌むと云ふ訳は逆抜は太刀が夫れ限りに死するが故である、順にやらねばならぬ、例へば人間の得てなるものは何か打つ事が得てなり三才の童子に打てといへば直きに振上げて打つ、これは天然の打ち方である、それを養成して強く早く打つ体も天然の体でなくてはならぬ、体を初めから作らす人間か突き立つた儘で宜いのである、天然の事を主として其宜い所を取つて養成すると云ふ主意である、面小手の流派とは主意を異にする、面小手の稽古は術を巧みにする、示現流は立てば盤石の如く、来る者は撃つ敵は幾らでも構はぬ術で相手を選ばぬ法であります、

またつぎのようにも述べる。 

立合いはしても仕合と云って術を試して見ることはしませぬ、一旦立ち合ふ時は死生を期してやる、刀の仕合いは撃殺すより他ない決して術を試し合ふことはせぬ規定でありました、 

 

以上は『史談会速記録 合本22』の内容をまとめたものであるが、私は示現流について詳しくないので間違っているところもあるかもしれない。それなので本記事は『史談会速記録』の備忘録と位置づけ、さらに詳しい経歴や文化を知ることができたら後日改めて記事にしたいと思う。