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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛と折田要蔵の乱闘——渋谷直武談(史談会速記録)

近世日本国民史』のなかで徳富蘇峰は、西郷隆盛が高潔な人格とユーモラスな人柄を併せ持っていたこと述べ、くわえて「西郷はことさら恭謙、士に下って、もって人心を収攬せんことを力(つと)めた王莽一流の偽君子ではない。彼はその人の悪事に対しては、もしくはその人の過失に対しては、これを詰責するに決して憚らなかったが、自ら大人として他に誇るがごとき態度は、いかなる場合でもなかった」と記している。

その例証となるような逸話を渋谷直武*1が語っているので紹介したい。

近世日本国民史 明治三傑 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允 (講談社学術文庫)

流刑地へ西郷を迎えにいった渋谷直武

渋谷直武の語るところでは、「西郷が大島へ流されて居りました時、吉井幸助(友実)使として島へ迎えに往きました、その比(ころ)私は諸生中でありましたが一緒に往きました」*2とある。”大島へ”とあるが、村田新八も一緒に連れ帰ったことや折田が大坂にいたことを考えれば元治元年のことになるので正しくは沖永良部島であろう。鹿児島に戻る途中、奄美大島に三泊四日滞在しているので記憶違いが生じているのかもしれない。このとき西郷は「今更帰れと云ってもいやだ」と吉井に言い、焼酎で酔わせて強引に連れ帰ろうとするほど当事者は苦労したが、酔いが醒めると口論になり、そこで吉井は「貴様が居なけりゃ治まらぬ、悪かったから帰って呉れ」と頻りに宥め、同時に喜界島*3に流されていた村田新八も迎えにいって鹿児島に戻ることができた。それからすぐに藩命がくだって、大阪へむかった。

折田要蔵の行為に怒る

その頃大阪には鹿児島出身の折田要蔵(年秀)がいた。「西洋の事に力を用い随分大法螺吹きの人でありましたが、以前江戸へ来て大砲の事などいくらか心得て居る、そこで御家老中方へ吹込み大阪の台場拵えの事などうまく話し込みて丁度その頃台場拵えの役人を命ぜられ旗本に召出され大阪に立派なる家を構え旗本然として居られ」た、と渋谷は折田の人物について述べている。

『神戸市史』の「近世人物列伝 折田年秀」での記述はつぎのとおり。

 久光摂海防備を厳にすべきことを幕府に建議する所あるや、年秀は久光の命によりて大阪に下り、摂海防備の設計を立て、砲台十四箇所一箇所凡六万両大砲八百十門一門凡千両を造り、尚其他城堡築造の要あることを復命す。同年(元治元年)二月幕府は年秀に命ずるに摂海防禦台場築造掛を以てし、百人扶持を給したれば、年秀大坂土佐堀に僑居し砲台築造の指揮をなす。

 大坂へむかう船のなかで渋谷が折田のことを話すと、「彼れ怪しからん事をなすかな今に往って咽喉でも絞めてやろう」と西郷は怒ったという。

大坂での乱闘 

大坂に着船すると西郷はすぐにでかけた。一方渋谷は、大山弥助(巌)や西郷慎吾(従道)などと虎屋(宿屋)へ行き、「もし折田方にて今晩何事かあったら知らせ」よ、と伝える。するとその日の夜九時か十時頃、サア来てくれ、との使いが来た。現場に到着してみると暗闇のなかで組み討ちがはじまっている。渋谷が燈をつけると、西郷は”本当に”折田の咽喉を押さえ、折田は西郷の腕を噛み、二人とも酔っていたためかなり烈しい乱闘となっていて茶碗や皿が散乱していた。そこで居合わせた者全員で二人を引き離し、別々の部屋に休ませることで騒ぎは収まった。翌朝、どうなっているかと渋谷が様子を見にいくと、二人は一緒に茶を飲んでいて、折田が「どうも咽喉が痛くてたまらん」といえば、西郷は「貴様は腕を噛んだじゃないか」と笑い話になっていたという。

 

出典:『史談会速記録 合本22』

*1:『史談会速記録(第百五十一輯)』

*2:原文変体仮名、以下同様

*3:原文では村田新八沖永良部島に流されていたとなっている。これも記憶違いだろう。