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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛と大久保利通の友情——入水当時について横目役谷村の証言

 前回の記事で触れたように『大久保利通伝』や『甲東先生逸話』などでは、西郷の入水騒動を知った大久保利通が現場に急行したと叙述されている。

ところが 春山育次郎*1の記すところによれば、大久保あるいはその同志が現場に駆けつけた様子は書かれていない。当時、救命作業にあたったのは平野国臣と月照の下男重助、藩庁の命で同行していた阪口周右衛門、それと阪口により呼び集められた花倉の若者たちだったようで、同志はその場にはいない。

 

月照は「衣帯に勝(た)へぬやうな清僧」だったためそのまま息を引き取ってしまったが、強壮な西郷は意識こそ戻らないものの息を吹きかえした。そこで阪口は、月照の遺骸と西郷を船に乗せて鹿児島に戻り、藩に報告して指示を仰ぐ。阪口の報告を受けて藩庁はすぐさま評議をおこない、町会所に月照の遺骸と西郷の身柄を保管することを横目役谷村某に命じたという。

谷村の証言 

西郷・大久保派ではなかった谷村

その谷村の語るところにより、当初大久保は西郷がどのような状態にあるか知らず、憂慮していたことが明らかにされている。そのまえに注目しておきたいことは谷村が大久保について物語った経緯である。春山曰く、谷村の出自と経歴は西郷・大久保の朋友子弟とは異なることもあり、「一般多数の薩摩人の如く、付和雷同して此の二個の巨人を随喜崇拝する」ような人ではなく、自身が関与し認識した長所と美点を「公平な態度」で承認することを惜しまなかったので、余談として西郷・大久保の人物について訊ねたところ、大久保の友情に感激したことを語ったとある。つまり西郷・大久保を敬慕するゆえの美談ではなく、目撃した事実をそのまま述べたものである。その谷村の話をまとめると次のようになる。

谷村を感動させた西郷と大久保の友情

前述したとおり横目役だった谷村は、藩庁に命じられ月照の遺骸と意識不明の西郷の身柄をあずかり町会所で保護していた。すると入水の噂を聞きつけた西郷の同志が駆けつけ、二人の容態をしきりに訊ね、あるいは姿を見せよと迫り、なかには暴言を放って罵るものまでいた。野津鎮雄にいたっては大刀を振り回して谷村に掴みかかろうという勢いであった。同志が憤激していた理由は、谷村が二つの棺を準備していたことから、藩庁が二人を殺したのだと疑惑を生じさせたためであった。しかし谷村は脅迫に屈せず、藩庁の命に従い、二人の生死については一切明かさなかった。

それから同志のうちで最も遅れて訪ねてきたのが大久保だった。当時、閑散の身であり「声望なお微々として振るはざる」大久保だったが、その態度と言辞は非常に鄭重で谷村と会うなり、「西郷が意外の事変を生じ、政庁はじめ当局の人を煩わすの多大なるを深く謝し」、それから西郷の生死について訊ねた。どのようなことがあっても守秘するつもりだった谷村も、憂慮を浮かべた面持ちの大久保を見て、「到底黙しておるに忍びない情を生じ」る。そして、「大久保の態度辞令の沈重にして礼あるを知り、こんな人には事実を語って聞かせても不都合はなかろうと思い」、西郷は昏睡状態であるものの命に別状はない、と告げた。すると大久保は「たちまち喜色満顔ただ一語そうですかと言ったきり、喜び極まって物言うことも叶わず、涙潸々(さんさん)として頬を流れ落ちるばかり」であった。それを見た谷村は同情を禁じえず、ひそかに西郷のいる部屋へ案内する。西郷を見た大久保は、息があることを近くで確かめると「悲喜の情に堪えざるものの如く」、落涙しながら西郷の顔を眺め、すこしのあいだ言葉はなく、ややあってから谷村に厚く礼を述べ、後のことをよく頼んで辞去した。

春山育次郎の著作について

私はこのような逸話があることを知らなかったので、大久保利通に関する文献にあたって確証を得ようと試みたものの、事件当時の大久保の動向を詳しく述べたものが見当たらない(個人で入手できる資料に限りがあり勉強不足であることは否定できないけれども)。当時の事情が不明である最大の理由は、この頃の大久保の日記が現存していないためだと思う。谷村純孝についても、「警部郡長等の職を奉じ、日州の地方に勤め、顕達せずして世を終わった人です」という春山の記述以外のことはわからない。つまり当事者側の記録による裏付けはない。それでも私は、谷村の話は事実だと思う。

 

なぜならば春山育次郎の『月照物語』は、『大久保利通伝』の出版当時(明治43年)発見されていなかった史料を参照して執筆しているからである。そのなかでも新納久仰の日記、「阪口周(用)右衛門具状書」は入水事件を記録した貴重な史料となっている。

 

そのうえ春山育次郎は、『月照物語』が出版された翌年(昭和4年)、『平野国臣伝』を上梓していて、その序文を手がけた勝田孫弥は、「友人春山育次郎君、久しく力を維新史の攻究に用ひ、自ら一家の見解あり。(中略)久しく晦蒙して人に知らるゝことなかりしもの、此書を待って始めて鮮明となりたる所極めて多し」と述べ、いわば『大久保利通伝』の著者からのお墨付きをもらっている。もっとも、谷村の話は平野国臣とは関わりがないため省かれているが、西郷入水後の記述は大部分が『月照物語』と重複しているので、『大久保利通伝』よりも当時の事情について詳しいものとみて間違いないのだろう。

 

しかし松方正義、税所篤といった当時の事情に詳しいであろう人物が『大久保利通伝』を監修していることを考えると事実無根の説をとったとは考えられない。それなのであるいは大久保が入水の噂を聞いて現場に急行したことも事実で、すでに阪口らが出帆したあとで西郷を見ること叶わず、鹿児島に戻った可能性も否めない。そうだとすると同志のうちでもっとも遅れて町会所を訪れたのも納得できる。なおかつ大久保は、後年兵庫で西郷と刺しちがえようとしたことすら人に知らせなかったのだから(唯一、本田親雄にのみ語っていた)、町会所で西郷を見たことは黙っていたと考えられる。谷村の立場もあるし、それにその日の夕方には西郷は自宅に戻されたので、同志に語る必要はなかったのだろう。むろん、これはただの推測にすぎないが。いずれにしても谷村の話はありえることで、吉井友実の懐旧談とも矛盾しない。その吉井の話については次回みてみようとおもう。

*1:『月照物語』『平野国臣伝』の著者