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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷入水前後の大久保利通

斉彬歿後の薩藩の形勢

安政5年7月16日、島津斉彬が没すると藩内の形勢は一変して、斉彬の事業に従事していたものたちは免職または転役となり、御小姓組はその大半が除かれる「俗論蜂起」の時代となった。いわゆる「順聖公崩れ」である。その影響で大久保利通も御徒目付の職を免ぜられ、閑散の身となっていた。

西郷の帰藩と有志の奔走

俗論党が権勢を振るっていた安政5年10月6日、それまで京都で活動していたが西郷隆盛が帰藩した。西郷は、禁闕を守護する義兵を挙げることと近衛家より依頼された月照の保護を藩庁に訴え、大久保もそのために「尽力奔走」していた*1

 

佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』によれば、この頃から大久保と有志の面々が、「久光に面会できるよう、吉祥院から久光にお願いしてくれと、たびたび吉祥院のところに頼みにきた」と、吉祥院*2維新後に回顧した記録にあるという。このときの有志の面々が誠忠組の母体となる。大久保らの目的は義挙計画を久光に訴えるためであった。つまり久光はこの時(斉興在世中)すでに、斉彬の遺志(義挙)を継承する人物として大久保らに嘱目されていたようである。しかし久光は、面謁を断っている。

幕末政治と薩摩藩

 

月照の入薩と藩庁の処置

そうした運動のさなか西郷・大久保にとって予期せぬできごとが起こる。11月8日、平野国臣に伴われ月照が鹿児島に密入国、10日には鹿児島城下に到着したのである。しかも月照を追跡していた幕吏は、この入国を探知し、福岡藩の捕吏を鹿児島城下に派遣する。

 

15日の午前、家老・新納久仰らの評議の結果、月照を日向方面に潜匿させ、捕吏には月照が立ち去ったと伝えることに決定した。そうして午後には月照の日向送りを即日決行せよ、との内命が西郷に伝えられる。西郷もその命に従うしかなく、深夜、納屋浜から出帆。その途中の大崎ヶ鼻沖で西郷と月照は抱き合って身を海に投じた。

 

入水直後の大久保

大久保利通伝』によれば、「初め、西郷が忍向(月照)を伴ひて海に航するや、利通は之を知らざりしが、偶、十六日の黎明に、此急報に接して大に驚き、直に馳せて磯に至れり」と、西郷入水の急報を受けて大久保が現場に駆けつけたことが簡略に記されている。また『甲東先生逸話』にはつぎのように書かれている。

 甲東がこの急報に接し驚いて馳けつけた時は、月照既に事切れ、南洲は幸に蘇生していた。同夜、直ちに南洲の家を訪れ、深くその純情を称え、且つ曰く、
「月照既に逝き、君独り生を全うすることが出来たのは決して偶然ではない。天が君を一層天下国家に尽くさせようと欲したからである。大に自重して軽挙する勿れ。……」と涙ながらの慰撫に、半ば醒めかかった南洲は勿論、家人もその友情に感激したとの事である。 

ところが、上のふたつとは異なる当時の様子を横目役だった谷村某(維新後、純孝)が春山育次郎に伝えている*3。すこし長くなったので谷村が語る大久保の友情と西郷の蘇生については次回述べたいと思う。

 

 

*1:勝田孫弥『大久保利通伝』

*2:住職乗願。税所篤の実兄

*3:『月照物語』