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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通と西郷従道——西郷清子談

『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通西郷従道の関係は次のとおりだったという。

西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装万端をお世話になり、その後もほとんど毎日のようにお宅に参っておりました。わたくしなどまでも何くれと教えてくだされ、いつも御注意を受けて居りました。

 

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親切な大久保公

従道侯は無頓着なために、ときおり大西郷の機嫌を損ねてしまうことがあった。あるとき従道侯が乗馬したまま、大久保公と大西郷の前を横切ったことがあり、大西郷は「生意気である」と立腹した。そこで大久保公は、従道侯を呼び出し、大西郷に謝罪するよう命じた。

終始陰になり日向になって、親切にしてくださいましたので、まるで実の兄よりも大久保サンの方が親しく、ほとんど骨肉の兄同様に思って居りました。

 

当時、従道侯の邸宅(永田町)と大久保公の邸宅(三年町)は近かったので、従道侯が陸軍省から帰る途中、大久保邸によって食事することが多かった。また大久保家の方から料理が贈くられてくることもあり、「とても肉親の兄弟でもあんなに親切には出来ないほどでありました」という。

 

そして大久保公は従道夫人のことも可愛がり「お清どん」、「お前、お前」などと呼び、夫人の方では「叔父様、叔父様」などと呼んでいた。

 

従道侯が台湾出征中のとき長男が生まれたのだが、大久保公は「私が名を付けてやる」と、『ホルモサ』と付けようとした。花の島という意味だった。しかし、清子の父得能良介がすでに命名していたため勇熊となった。従道侯の目黒の別荘に『掬水』と命名したのも大久保公だった。

 

大西郷の死と大久保公の死

西南戦争中のある日、大久保公から一通の手紙が送られてきた。手紙に目を通した従道侯はすぐに機嫌が変わり、長大息して黙り込んだ。そのとき訪れていた市来政方が話しかけても返事がなかった。その日の夕食がすむと清子氏にむかって、
「これこれ、今日は鹿児島の城山が落ちた。兄も最期を遂げた」と告げて号泣した。さらに「自分は今日限りだ。今日限り官職も罷めるから、荷物を片づけ、明日から目黒の宅に送れ」と命じて引篭もってしまったという。

 

翌日、来訪した大久保公は辞職を引き止めようとした。しかし従道侯は「私は如何なる事でもあなたの言葉には背きませぬが、この事ばかりは、お許しくださいますように」と聞き入れない。仕方がなくその日は大久保公も帰ったが、一両日してからまた訪れ、
「未だ世の中も全く治まった訳ではない。何時何処に乱が起こらぬとも限らぬ。今お前が引き込んでは宜しくない。私に一切を任せ、是非出勤せよ」と勧め、「その代わり機会を見て暫く外国に出してやる。公使に就職するように尽力する」と懇切に説いたので、従道侯も承知した。その後、イタリア全権公使に命じられる。

従道侯は、「今度自分は外国に行けば、モウ日本に帰らず、外国の人になって仕舞う」と言っていた。しかし大久保公が暗殺されたことで従道侯の外国行きも白紙になってしまった。

 

大久保公暗殺当時の従道侯について「あの頃西郷は、ほんとうに泣き暮らして居りました」といい、夫人もまた「大久保さんの御親切を思い出しますと、いつも涙の種となるのであります」と語っている。