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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断

大久保利通関連

古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。

 

そこで安間村*1にいた金原明善(きんぱら めいぜん)は、沿岸住民とのあいだに協力会社を設立し、治水事業に尽力していた。ところが明治10年に県の治水の予算が4万円に縮小。静岡県には大川巨河が多いため、天竜川の治水事業には1万円しか割り当てられなくなった。

 

これまで年間2万6千円の費用がかかっていた事業である。このままでは工事を中止しなければいけない。明善翁は「斃れて止む」との決心を住民に約束して治河協力会社を設立していた。むろん翁自身は天竜川のために斃れることは差しつかえない。だが、その後はだれが天竜川の水防に取り組み住民を救うのか。それまで幾度となく県庁に哀願していた翁は、10年の暮れ頃になりある覚悟決めた。

 

「非常の事業を全うするには、非常の決心をせねばならぬ。お上も恃むに足らず、河下の人間も力とするに足らぬうえ、ただ頼むは自己の熱誠のみであるここで徒らに日を送ることは、餓死を待つ同様である」

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12月中旬。表向きは博覧会見物として妻・玉城を連れて上京する。翁はまず、本郷の真光寺にむかい川村正平を訪ねた。川村は半年ほどまえ太政官の命で地方を調査し、翁の治水にかける熱意に感服した人物であった。

 

事情を聴いた川村は、宮内侍補の土方久元を紹介するといい、土方家まで同道した。土方も翁の熱意にうたれ、吉井友実から大久保内務卿に伝えた。

 

当時、大久保公は多忙であったが「そういうことならば12月26日に霞ヶ関の官舎で面会する。同日午前出頭せよ」と命じた。

 

こうして12月26日、明善翁はこれまでの事情を一通り説明したあと、
「政府として人民保護の処置を尽くさなければ、沿岸の土地住民は滅亡するほかない」

と陳述した。

 

するとそれまで黙していた大久保公は、
「われは天竜川の内務卿にあらず、天下の内務卿である。天竜川の沿川における人民の窮状はまことに気の毒ではあるが、天竜川の沿川だけを救済するわけには参らぬ」
と拒絶。


明善翁は冷水を浴びせられたようであったがどうにか気を取り直し力を込めて訴えた。

「この上は致し方ありませぬ。私には非常の大決心がありますが、それならば御聞き届け下さるでありましょうか」

 

「非常の決心とは如何なる意味であるか」

 

「我家の先祖代々所持しております家産をすべて献納して工事費を償いますから、不足額の補助を願いたい」

 

「その金はどのくらいある」

 

「よく調査しなければわかりませんが、家産全部を売却すれば、四万円ほどはあろうと信じます」

 

この決心を聞いても大久保公は、
「一応考えてみよう。今日はまずこれにて帰ってよろしい」
としか言わなかった。

 

こうして明善翁は川村正平の家へ戻った。翁は、おそらく駄目であろう、生きては郷里に帰られぬ、神も仏も我が熱誠を見てはくれぬのか、と失望していた。

 

翌朝、上京中の静岡県令大迫貞清から、翁に出頭せよとの命があった。江戸払いでも受けるのであろう、と大迫県令の宿所を訪れると、
「昨日、君は天竜川の沿川の状態について、内務卿に詳細陳情したということであるが、内務卿からの命が下って、さっそく県庁にあてて願書を差し出すべき旨の沙汰があった。君の願意は叶ったのである」
と意外なことを告げられる。

 

これを聞いて翁は涙を流して喜んだとのことである。それから旅館に戻り、玉城に「お上のため先祖伝来の家財をすべて差し出す。財産は一切残らない」と告げた。

さらに、これからは自活のために月給取りになる、と言い、それでも天竜川の治水が成功しないときには、「お前と共に樽の中へ入って、天竜川の河底へ埋めてもらう。そうして命のあるあいだ鉦を叩いて、天竜川に厚意を持つ者を守護し、天竜川に反対する者をとり殺す。最後の手段はこれしかあるまい」と玉城に言った。

 

家産献納のことを知った山岡鉄舟は、
「お前、そんなことをしてどうする。それほどにせずとも法の立てようがあるではないか」

と言うと、明善翁は、
「私は借金のない車夫になった心でやります。世には借金を持った車夫さえあるではありませんか」
と答えたという。

 

そうして玉城を東京に残したまま、郷里に帰り、治河協力会社で家産公売の手続きをした。そして『財産献納願書』を区長や治河協力会社の社員ら9名が連署して11年の3月、県庁に提出。


ところが県庁では、一家の全財産を受けいれるわけにはいかない、として一部を明善翁の生計に差しつかえないように下げ戻し、残りを治水事業に出金させた。さらに治水工事のために年間2万3千円の補助金を下付することが許可された。こうして翁の素志が貫徹されたのであった。

 

後年明善翁明善は次のように人に語ったという。

大久保内務卿は大迫県令に対し、若し明善翁より全財産を提供するにおいては、斯々の条件を付して指令を与えるべしとの命を、予め下し置かれたものではないかと思われる。内務卿は霞ヶ関において、私の長い歎願を黙して聴いておられたが、国家多事の際国政の上からいえば勿論大事件とはいえない一小部分の問題であって、所詮採用は駄目だと諦めていたが、わずかに一日の詮議を以て、斯くまでに徹底したる裁許を仰いだことは感歎の外はない。——勝田孫弥『甲東逸話』

そして『甲東逸話』の著者は以下のように記している。

斯の如く、甲東の決断で明善翁は願意を遂げ、その面目も立ち、初めて蘇生の思をしたのである。而して天竜川の治水の基礎、植林堤防の方法も備わり、沿川における数万の人民のために生命財産が全く保護されるようになったのは、実に甲東の賜物であったのである。
 後年伊藤博文が内務卿たりしとき、やはり天竜川の治水問題で、内務省に詮議を願い出たことがあった。伊藤内務卿を初め、各局課に至るまで、なかなか議論家が多く、法律の解釈、規則の見解と、荏苒日を重ね、遂に三ヶ月もかかったのである。
 同じく治水の問題で、伊藤内務卿の時代は三ヶ月を費やし、大久保内務卿の時にはわずかに一日にて処断された。明善翁は一日と三ヶ月とを比較して大久保内務卿の手腕力量に鑑み、「たとい時代の推移はあるにせよ、その人物の等差も隔たりがあるものである。」というていた————勝田孫弥『甲東逸話』

 参考 勝田孫弥『甲東逸話』 静岡県知事官房編『金原明善と其事業』 渡辺霞亭『金原明善翁』

*1:現・浜松市

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