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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

村田新八と仏罰——滴水和尚の予言

明治10年、山岡鉄舟天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。

 

鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう」と答えた。

 

戊辰戦争のとき鉄舟が駿府の大総督府へ向かって官軍の陣営を駈け抜けたとき、桐野利秋とともに追いかけて鉄舟を斬殺しようとした一人が村田新八であった。後日、村田は「あなた(鉄舟)がとっとと西郷のところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった」と打ち明けている。(「慶應戊辰三月駿府総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳——『最後のサムライ山岡鐵舟』)

 

鉄舟の返事を聞いた和尚は憮然として「西郷という人は多少禅の心得もあり、大人物と聞いているが、しかしこのたびの戦いは到底成功は覚束ない」と口にした。

 

 

同じ思いを抱いていた鉄舟はその理由については訊ねなかった。

 

 

西南戦争終結後、和尚は鉄舟に会ったとき「仏罰は気の毒だが致し方が無い」と言った。それを聞いた鉄舟は、和尚が薩軍の失敗を予言した理由がわかった。

 

元治元年、いわゆる「禁門の変」の際、来島又兵衛の軍が天龍寺に屯営していた。そのため薩軍天龍寺に残党狩りにむかったことがあった。このとき既に長州藩士はいなかったのだが、薩軍は砲撃を加えようとした。そこで滴水和尚は、「後醍醐天皇以来由緒ある古刹を濫りに焼かないでもらいたい」と当時隊長であった村田新八に交渉。村田はそれを承知したにもかかわらず、砲撃して焼き払ってしまった。こうしたことがあったゆえに、滴水和尚は仏罰だと言ったのである。

 

以上は「高士山岡鉄舟居士」の記述を要約して現代表記にしたものである。よく知られているように西南戦争勃発前の村田新八主戦論者ではなかったといわれる。

鹿児島帰郷後、従弟高橋新吉に送った書翰では、
「私学校の事態甚だ険悪なり。到底破裂は免れずと思う。うどさあ(鹿児島方言で大人さんの西郷のこと)の力も今は及ばずなった。自分も出来るだけ抑えることは心掛けて居るも、到底どうも手の付けようもない。この事態を喩えんに、恰も五升樽に水を一杯入れたるも、帯(箍)の正に腐朽して破裂せんとして居る如し。」(牧野伸顕『回顧録 上』)
と述べていたことからもそれは窺える。帰郷後の村田新八についてはまた別の機会に取り上げることにするが、それにしても破滅から逃れられなかったというのは滴水和尚が予言したように因果であったのだろうか。

 

回顧録 上巻 (中公文庫)