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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

山岡鉄舟の情欲修行

いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、
「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。

 

さらに、
「自分は21歳の時から色情というものは妙なものだと疑問に思って、それから30年間、数知れぬほど女性に接したのであるが、その間実に言うに謂われぬ辛苦を嘗めた。そうして49歳の春、ある日庭の草花を見て、たちまち機を忘れること若干時、ここにおいて初めて生死の根本を裁断することができた」と述べている。

 

後年、鉄舟の実弟小野飛馬吉が語ったところでは、
鉄舟があるとき「色情というものは一切衆生生死の根本であるから、実に執拗なものだ」と言ったことがあり、それに対して飛馬吉は「色情などというものは、誰でも年を取れば自然になくなるものでしょう」と反問した。

すると鉄舟は「馬鹿なことを言う。お前の色情とは形而下の事をいうものであろうが、そんなに俺は三十歳の頃には心を動かさなかった。しかし男女の差別(しゃべつ)心を除かねば本当では無いと考え、そのため非常に苦労した。そうして45歳で『両刃、鋒を交えて避くるを須いず』の語に撤してからは、あらゆるところに物我一体の境涯を受用したが、なお仔細に考えてみれば、男女間のすこしの習気が残り居るため、一層の努力をなし、49歳の時になってようやくそれを断つことを得た」

 

最後のサムライ山岡鐵舟

『最後のサイムラ 山岡鐵舟』にある英子夫人の懐旧談では次のとおりである。

 

「鐵舟は二十一歳でわたくしと結婚しました。その当時より、しばしば独り言で『色情というやつは変なものだ。男女の間は妙なものだ』と言って小首を傾げていますので、わたくしはおかしなことを考える人だと思っていました。もともと鐵舟は何の道を修行するにも尋常なことでは満足せず、徹底的に突き詰めようとする、そのためにはすべてを賭してかかるという性質でした。
 それでも結婚後二、三年は無事でしたが、二十四、五歳の頃から盛んに、飲む、買うというようになりました。もっとも一人の女に入れ揚げるというのではなく、なんでも日本中の商売女をなで斬りにするのだなどと同輩の者には語っていたようです。なんといってもその頃の鐵舟は、一命を投げ出している諸藩の浪士らと日々付き合っていましたので、わたくしはなりゆき上やむを得ないことと諦めていました。
 しかし親族一同が騒ぎ出し、鐵舟を離縁するように何度かわたくしに迫るようになりましたが、わたくしは最後まで承知せず、鐵舟を弁護していました。ところが鐵舟はそんなことに少しも頓着しないので、ついに親族一同から絶交を申し込んで参りました。鐵舟は『それならかえって面倒がなくてよい』と言い、いかようにもご勝手にどうぞという対応でしたので、以来親族とは絶交となりました。
 とはいえ、わたくしには女の意気地というものがなく、かれこれと心配のあまり、一年ほど患ってしまいました。その頃鐵舟はたいてい東京へ出ており、わたくしは子供三人と静岡の留守宅を守っていました。ところがある夜のこと、鐵舟の枕元に顔色は青ざめ身体は痩せ衰えたわたくしがしゃんと座っていたそうです。鐵舟は驚いて、『お前は英(ふさ)ではないか』と言って、はっと起き上がったところ、その姿は消え失せてしまったとのこと。
 程なく鐵舟は帰宅すると、じっとわたくしの顔を覗き込み、お前は怖い女だなと申しますから、わたくしが『なぜでございますか』と訊きますと、今の話をしてくれましたので、わたくしは思わず懐剣を取り出し、『放蕩をやめてくださらなければ、子供三人を刺して自害するほかございません』と泣いて諫めました。
 そこで初めて鐵舟は色情の修行のために放蕩をしていることを明かしてくれ、それを聞きますと、わたくしなりにいろいろと思い当たることもあって、なるほどと合点がいきました。鐵舟は『もうお前には心配はさせない』と言い、ばったり放蕩をやめましたので、親族一同も安心し、ついに兄泥舟(夫人は高橋泥舟実妹)の発議をもって、鐵舟に山岡家の家督を相続させました。これがちょうど鐵舟が三十四歳の時だったと思います」