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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとしている。これほど遺憾なことはない」と、大西郷の悲惨な最期に万斛の同情を禁じえなかった。

 

そこで大久保公は「その精神と勲業を天下に表白し、その遺徳を後世に伝えられる者は予をおいて他にその人はない」として、重野安繹を自邸に招いて、その編輯を依頼した。重野安繹は次のように語っている。

 

「十年の戦争で西郷が城山で死んだとき、故大久保内務卿はわざわざ拙者を自宅に招いて、『西郷の履歴については斯く斯くの事がある、これは人の知らぬことである。自分は西郷の伝を書こうと思うが文章の才が無いから、お前が西郷の伝を書いてくれ。その時は今話したことを書き入れてくれ』と言われた。然るに大久保公はその翌年兇徒のために殺害されたので、西郷とわずか一年の違いで死なれたのは両人が刺しちがえて死んだのと同様である。偶然であろうが不思議である。(中略)然るにその事未だ緒に就かざるに先だち、甲東は紀尾井町の変に斃れ、従ってその素志もまた水泡に帰したのであった」

 

このとき大久保公が”人の知らぬこと”として重野に語ったのは、文久2年に兵庫で刺しちがえようとしたことについてだった。

西郷と刺しちがえようとした大久保

当時、上京する久光一行に先発していた大西郷は、馬関で待機するよう命じられていた。しかし京近辺には、久光の上京に呼応して旗揚げしようとする過激派が多く、西郷はそれらの暴発を抑えるためにも馬関を発ったねばいけなかった。久光はそうした事情を知らず、また西郷が他藩士と陰謀を企てているなどと曲言するものもあり、久光は激怒した。その後、大久保が西郷に会って、真相を確かめ、それから久光に事情を陳弁したが、その怒りは鎮まらず、ついには西郷の捕縛を命じた。

 

こうした時、西郷は兵庫にいた大久保のもとを訪問した。西郷は、長井雅楽の建白を報告するため戻ったのだが、西郷が語り終えないうちに大久保は西郷を人影のない浜辺に誘い出した。

 

明治31年に本田親雄が税所篤に送った書翰(『甲東逸話』から)を意訳すれば、二人の会話はだいたい次のようになる。

大久保は、「久光公は兄(西郷)を捕縛する命を出した、罪もなく奸吏に捕縛されるくらいならば、天命だと覚悟して自裁すべきであり、自分はそれを止めない。その後自分のみが生き残って何ができるだろうか。死ぬならば兄と刺しちがえて死のう。これがわが志であり、覚悟は決めてある。だから、人気のない浜辺まで来たのである」と語ると西郷はそれに対して、
「これは大久保の言葉とは思えぬことだ。久光公の激怒と斯くの如き形勢に至ったことは今更是非もない。しかし、自分は君の想うような自裁処決をするものではない。たとえ縲紲の辱めに逢い、如何なる憂き目を見ようと、忍んで命に従い、大計の前途を見ることを期する者である。君もまたこのように覚悟を決めなければいけない。もし、この状況で吾等二人が刺しちがえてしまえば、天下の大事は去るであろう。これまで推し進めてきた画策は誰が継紹するというのか。男児が忍耐して事に当たるのはこのときではないか」と答えたのであった。*1

大久保と西郷が刺しちがえようとしたのは4月9日の晩であり、本田が大久保からこの話を聞いたのは4月11日である(『近世国民史』)。さらに本田は、「(大久保が)語り畢(おわ)て歎息一声此事たる真に秘中の秘なり、言もし外に漏れなば万事休すべし、前後の事情を洞察して、深く心に納め置給へ」と告げられたので、「大久保公が薨するまで口に登せざりし」とつけ加えている。

維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)

大久保の意志を継いだ勝田孫弥の『西郷隆盛伝』

『甲東逸話』の著者である勝田孫弥は明治27年『西郷隆盛伝』を出版した。そのとき、大久保利通の次男牧野伸顕は、「わが先人はこの志を抱いて遂に果たされなかった。今、君が数年の苦心と努力とを以て、その伝記を成就し、我輩また幾分の賛助をなすことを得たのは、偶然にして先人の意思を継紹した訳である」と大変喜ばれたという。

 

それでこの『西郷隆盛伝』には、牧野伸顕が参考資料を提供しただけではなく、大久保が語っていた西郷に関することを盛り込むことで先人の意思を継紹したのだといわれている。なお、よく知れられているとおり勝田孫弥は明治43年に『大久保利通伝』を執筆しており、このときも牧野伸顕、大久保利武の両氏が材料を提供している。それらは国立歴史民俗博物館で催されている企画展示『大久保利通とその時代』で見ることができる。



しかしなんといっても大久保公の手によって『西郷隆盛伝』が編成されなかったのが惜しまれる。小松緑山岡鉄舟などは、大久保を暗殺した実行犯は西郷の仇を討つためだと考えていたが実際には西郷の一番の理解者を亡き者にしてしまった、と語っているが、実にそのとおりだと思う。

 

速水堅曹の談話に、
「西郷、大久保両雄の心事については世の中の人の知らぬ秘密があるのです。誰も知りませんが、ただ五代友厚だけは知っていました。私も聞きましたが、これは死を以て言わぬと誓ったことだから、五代亡き後ではあるが、語られませぬ」と見えているが、西郷を知るのは俺だけだ、と自任していた大久保に至っては尚更のことであっただろう。

*1:このやりとりは西郷を服罪させるための芝居だったという説もある。

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