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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

渡辺国武の大久保利通観

無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。

  大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は、全国の政権、兵権、利権を統一して、純然たる一君政治の古に復するのがその重要目的であったと考えられる。

 欧米各国を巡回されて、その富強の由って基づくところを観察して帰朝されてから以後は、第二段落である。この世界上に独立して国を建てるには、富国強兵の必要は申すまでもないが、この富国強兵の策を実行するには、是非とも殖産興業上から手を下して、着実に、その進歩発展を図らなければならない。建国の大業は、議論弁舌でも行かぬ、やりくり算段でも行かぬ処虚喝怒嚇でも行かぬ、権謀術数でも行かぬ、と大悟徹底せられた。これが大久保さんの理想の第二段落であると私は考える。

 こうした理想の変転は、大久保本人がしばしば口にしていたことであったという。またこれは安場保和の追懐になるが、やはり欧米巡回後の大久保に会って、それまでは「只豪邁沈毅の気象のみに富んだ人であったが、巡回後はそれに洒落の風を交え、加ふるに其識見が大いに増進」していたことに驚いたと語っている。

 

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一諾千金

大久保さんは沈毅果断の人で、天稟により国家の大臣たる資格を備えて居られたというてよろしい。多弁でもなければ事を軽々しく決断もされなかった。

と渡辺は述べる。当時、地方官のなかには「どうも大久保さんは何事も即答せられぬから困る」と苦情をいう人もいたが、渡辺の見るところでは、大久保公の政務裁決の返答には3パターンがあったという。

 第一には、それは『御評議にかけましょう』といううことである。この言葉は既に断行の意思を表明されたのであった。

第二には、『それは篤と考えて置きます』ということである。この言葉は、真に尚多少の考按調査を要することを意味した。
第三には、『それは御評議になりますまい』ということである。この言葉は断然たる否定の意味であると私は考えたのである。

 この第一の返答を得たときは、多言を費やす必要はなかったが、第二第三の返答であるときは、数千万言を費やして利害得失を説いて大久保公を納得させなければ、まず安心はできなかったという。


大久保の教訓

父兄がその子弟に対するように地方官に接していたという大久保公は、高知へ赴任する渡辺国武につぎのような教訓を与えそうである。

 『何しても、君はまだ三十になるかならぬ少壮の人である。赴任の後は、自ら警めて余程の重厚な態度を保たなければならぬ。今までの書生流ではならぬ。私なども君の年頃には随分詭激突飛なことをやったものである。人は途方もないところで、途方もないことを云わるるものである。

 私が薩摩の藩庁に出仕していた頃、英国の軍艦がやって来たので、それを偵察するために倉の屋根に上って、見ている中に、雨上がりで瓦に滑って転んだところが、大久保は平生詭激な議論はやかましくするが英国の軍艦を見て腰をぬかしたなどと評判せられて、大いに迷惑したことがある。何事も深沈重厚、県民の依頼心を一身に集めるように心がけねばならぬ。それが政治の秘訣である。君のためにはよい修業である

以上のように忠告したのは、当時太田黒などに高知の県令を交渉したが、高知が叛旗を翻すとの風説があったため辞退しており、誰も引き受けようとしなかったとき、渡辺が自らすすんで高知に赴任することになったからであった。

 

なお、渡辺国武が高知へ赴任したときのことを片岡健吉は次のように述べている。

「土佐の青年激徒は、侠禅赴任の報を聞き、其の一行を屠て旗揚げをしようと企てたが、侠禅は別に護衛を連れず飄然としてこの不穏の任地に到着した。又何時其の宿所を窺ってみても、孤身独影、泰然として読書に耽っている。流石の激徒も襲撃の機会を得なかった」。

 

また、大久保公が親身になってアドバイスをすることは、決して良好な関係だったとはいえない福地源一郎も語っているところである。

 

機鋒を一変させた一言

 

地租改正局にいた頃には渡辺国武が大阪府権知事渡辺昇と所見を異にしたとき、大久保公に裁決を乞うと、大久保は渡辺国武の意見に納得し、渡辺昇につぎのように命じた。

『君等は喧嘩ばかりしていても詰まるまいから、和睦して国家のために尽くすがよかろう』と。

 

後日、大久保邸で両人が饗応されたとき、酒を含んだ渡辺昇が、
「閣下は私の云うことは少しも採用にならないで、小池(渡辺国武は当時小池姓だった)のような書生のいうことばかりお聞きになったのは、意外千万である。とても改正事業の成功は覚束ない」
というと、大久保は微笑し、
維新前、君が朱鞘の大小を腰に帯び、京摂の間を横行して近藤勇等につけねらわれた頃の事を思えば、地租改正ぐらい出来るも出来ぬもあるものか』と言ったので、渡辺昇は笑い、それ以降は怨み言を言わなくなったという。

 

 大久保さんは多弁の人ではなかったが、そのいわれることは、実に『寸鉄殺人』と云われるような趣があった。(略)他人が千言万語を費やしても説明のできぬことを、ただ一言の下に喝破してその機鋒を一転せしめられたところは、流石に絶代の偉人であった。

 

鉄心石腸

大久保公がいかに囲碁を好きであったかは、渡辺の家にある大久保公の日記の写しにも、「大抵毎日、又は隔日位に『今日囲碁』ということが必ず書かれてある」ことからもわかると述べる。しかも、明治7年、全権弁理大臣として清に赴いたときも船の中で碁を打ち、難題が待ち構えているにも拘わらず、その手筋が寸毫たりとも乱れなていなかった。これには随行していた「碁好きの人が感服恐縮して居たということである。鉄心石腸というのは実にこの人の事であると思うのである」。

 

これと同様の話が明治6年、大西郷が辞表を届けたときにもある。西郷辞表の報告を受けたときも大久保の手は乱れなかったという。しかし、明治10年、熊本城包囲に大西郷が加わっていることは予期せぬことで、その手が乱れていたという逸話がある。

 

大久保さんもこの鉄心石腸を錬磨せらるるには随分と骨を折られたようである。青年時代に、西郷南洲や海江田信義の諸士と近思録会とかいうものを起こされて、毎晩遅くまで集まって真面目に錬心胆の実行を試みられたとのことである。
 維新の際における国家中興の真元勲であり、明治の大政治家たる大久保さんの事業は、実にこの錬心胆の結果と見るべきである。それ故に、この錬心胆の一事は青年諸子が最も鋭意鍛錬すべきことで、国家前途の盛衰に関係あるところの一大問題であると云わねばならぬ。