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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

有馬藤太と桐野利秋の関係

近藤勇を降参させ、助命を訴えたことで知られる有馬藤太。彼は、桐野利秋と大の親友であり、その関係を次のように語っている。

 桐野と私は最も親しかった。そして西郷先生は桐野と私を最も可愛がられた。いかなる秘密な事件でも大抵は私共二人だけには御知らせになった。そして私の秘密主義を非常に喜んでおられた。剣術は桐野の方が多少上であったが、文書は私が少し上であった。

今回は有馬藤太の『維新史の片鱗』から、有馬が語る桐野利秋との関係を紹介したい。

 

初対面で意気投合

二人が初めて会ったのは、鹿児島にいた頃のことで、桐野(当時は中村半次郎)が有馬の家を訪ねて来たのだという。二人はすぐに意気投合した。しかも桐野は、「談話の節々、天下の形勢を論じ、邦家の前途を説き、議論堂々ちょっと私の知らぬことを滔々と弁ずる」ので、有馬は驚き、畏敬するようになった。

 

さらに後日、桐野の家を訪問したとき、馳走はツマラヌもの(サツマイモなど)だったが、桐野やその家族の誠心込めての饗応に感じ入り、それからは「水魚もたたならざる交わりを続け」たという。そして維新後、桐野は武官、有馬は文官となった。

 

御弊藩


桐野は生かじりの漢語を連発して、相手かまわずまくし立ててることがあった。例えば禁闕(きんけつ)を禁関(きんかん)と誤り、「賊、禁カンを犯さば」と口にして失笑を買ったことがある。

それである時、有馬に次のような話が伝えられた。

 

「桐野は貴藩と弊藩との区別を知らぬ。ある人が桐野に向かって、『弊藩が、弊藩が』と話すのを受けて、桐野は、『貴藩が御弊藩と』などと応じた」

有馬はまさかそれほど桐野が無頓着ではあるまい、とそのことを桐野に訊ねた。すると桐野は平然として、
「ムー、云うたが、向こうが『弊藩弊藩』と云うから『御』をつけて御弊藩と尊んでやったが」
と云う、
「ソレヤお前違っているよ。弊藩と云うのは自分の方の事を謙遜して云うので、貴藩と云うのは当方を尊んで云うのじゃから、お前が向こうを呼ぶには、貴藩と云わにャいかんよ」
と云うと、
「ソーカ」

と、とくに気に留める様子でもなかったという。 

 

これには流石の有馬も驚いた。陸軍少将の桐野がこれでは、鹿児島藩の名折れだと思い、それからというものできるだけ桐野の側にいて、「大抵の手紙の返事まで私が代筆をした。それで世間に桐野の書というのは、私の筆が多い」という。そして、有馬は次のようにつけ加える。

そういう無頓着な桐野も、一朝天下国家の問題になると、全く別人であった。それで征韓論破裂後、西郷先生の帷幄に参ずるのは、郷にありては桐野、都にありては私だけであった。篠原、村田などは、『私等はただ先生の命のままじゃ、死するも生くるも先生にお任せしている。議論も無ければ理屈もない、要する所それが天皇のためと心得ている』
と云っていた。

 

征韓論破裂後の西郷と桐野が、果たして有馬の述べるとおりの関係であったかは疑問である。西郷の忠僕熊吉は、「実に困る。桐野などが手に余る」と西郷が歎息したのを聞き、それを西郷菊次郎に語っている。このことから考えれば、むしろ中井弘が語っているところが事実に近いのかもしれない。

それはともかく、桐野が非常な熱弁家であるのは事実であったらしく、その主張は時勢を明察した堂々たるもので、多少の誤読はあったにせよ愚蒙な人物ではなかったそうである。