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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

伊藤博文の私人としての一面——西園寺公望談

前回に引き続いて『園公秘話』から。今回は西園寺公望が見た、伊藤のプライベートの一面や逸話などを紹介したい。

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奮発

西園寺は、伊藤は必要なときには勉強もしたが「普段は決してしないマア偉い勉強家とは思いません」と述べ、「個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あった」”明暗双双”と評している。

 

その伊藤が奮発した出来事を二つ紹介している。

一つは、伊藤が20か21歳の頃。井伊の子息が将軍のお使いとして京都に上ったとき、伊藤はそれを見物していた。見物を終えて帰ると、
「井伊について居った供の侍の中に何人ばかり強そうなのが居ったか」と仲間に訊かれた。伊藤は「そんな事に気がつかなかった」と言ったところ、「そんな事ではいかん」と油を絞られたという。それから奮発し、注意深く観察するようになった。

 

もう一つは、大久保が殺されときだった。大臣になった岩倉が、「大久保殺されて朝廷人なし」と言ったのを聞いて、随分と勉強に励んだという。

 

淡泊

伊藤はごく淡泊で金を出してやることが嫌いであった。また自分と交渉がなければ相手にせぬというような風であった。山縣や大隈などと違って、薩摩人とも違って、執着がすくない。要するにどうも人を使うことを知らぬのです。山縣の評に伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかったと今でも言うが兎に角、自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われる。それで子分という者がなかったようです。

 

伊藤に子分が少ない理由については、金子堅太郎の談話も参考になると思う。

 

こうした淡泊な一面は、女性関係においても同様だったと大隈重信や清浦奎吾等が証言している(金銭を一切払わないということはないが、無頓着なところはあったという)。

 

伊藤が人才を用いるという場合にはどこでも構わない。それは長州人であろうと、薩摩人であろうとそんな事は構わなかった。しかし薩摩人には余程鋒先を避けておったようです。

これは淡泊な性質の長所ともいえる。出自に拘らず人才を用いようとしたことは、木戸公や大久保公といった先輩の影響でもあり、とくに大久保公の影響は大きかったのではないか。山本権兵衛が聴いた伊藤の大久保評では、

平生、誰の系統とか、何藩人とかの区別を設けず、何人に対しても推すべきは心中からこれを推し、用いるべきは心中から敬して用いておられた。それゆえ大久保さんにはみんな心から服し、喜んで力を致したのである。

山本権兵衛の記憶に強く刻まれた大久保利通の逸話 - 人物言行ログ

 と大久保公の宏量を讃えている。伊藤が大久保のやり方を手本にしたことはよく知られている。

 

演説は下手だったが座談は上手だった

一体伊藤は理屈が好きで演説などはまるで下手だけれども座談はなかなか上手で一杯酒でも呑んで調子に乗って来ると鋒先あたるべからざるものであった。

陸奥が匿名で書いた「諸元老の習癖」では、「其談話が講釈様なる所多く、他人をして自己に聴かしむるを好み、他人をして何等発言するの機会を有せしめず。故に、或者は其の卓論に感服し多少の利益を獲たりと思う者も多かるべけれども、間々其長談を聞くに倦む者なきに非ず」(岡義武氏『近代日本の政治家』)とあり、その内容は西園寺が述べていることと一致している。しかも匿名であるがゆえに率直な意見ともいえるだろう。

近代日本の政治家 (岩波現代文庫―社会)

飲酒

そして酒は、洋酒であろうが日本酒であろうが、またその他の酒であろうが関係なかった。しかも「その良否が分からないらしい」といい、「純良なるものか、粗酒であるか分からないで、ただ飲むのが好きでした」と語っている。

 

或る時、朝鮮でブランデーを飲んでこれはあまり良くないのでしたが、これは善いといって大変よろこんで居ったが、なるほど酒を容れた徳利がその前に飲んだのと同じようなものであったので、不味酒ということを分からないで、良い酒だと云って居ったことがあります。

 

自宅では、夜十一時半頃から一時間ちかく酒を飲んでいて、この時間に同席していると「長く引っ張られる」ことになった。

 

そうして管巻く、李鴻章と話したらどうだとか、山縣の不平も出れば、井上の不平も出る、自家の貧乏話も出る、そうして一向かまわない、慷慨淋漓という風で国を憂うる事などもあった。これが先生の唯一の楽しみであったらしい。

 

しかし酒に弱かったらしく、量はそれほど多くなかった。とにかく早く酔って、管を巻くというのが伊藤の飲み方だったようだ。晩年に至っては、朝から酒を飲み、夜中に酔ったまま散歩するため、身内のものが密かに巡査や書生に追わせることもあり、つぎのような災難もあったそうだ。

 一度杖を折って田圃の中へ転んで居った事があるが、それでも夜中の散歩をなかなかやめない。老年のことだから奥さんが心配して居ったが、私は健康の為には良かったろうと思う。

食事

食事は粗末なものだった。「余程粗末なもので、私共も呼ばれて困った事があるのです」と語るほどである。しかも和食でもコース料理のようにして食べていたようだ。

 

先生の創意か知らんが、日本食を西洋食のように一々取替えるのです。日本食のように沢山並べる事をしない。吸物が一つ終われば焼物を出す。汁が済んだら刺身をもって来るという風に、一々取替える趣向をしたものです……。

趣味

「手紙を書く事は中々上手でした。しかもその文章が一番上手でこれも初めの方はそうでなかったようですが、晩年に至ってはいくらか注意して書いたようでした」

樋田千穂の追懐では、伊藤は何度も手紙を書き直していたとのことで、その理由を訊ねると、「わしの手紙を受取る人は、いつまでも残しておくかも知れない」から、「決しておろそかに書けない」のだといったという(『近代日本の政治家 』)。

詩と琵琶歌

詩については「格別上手でもなかったようです」と述べている。そして詩集には拙作もあり、誤字もあるという。

琵琶歌も好きであったが、「これも鈍根の方で、どうしても調子が分からない。脱線するまで行かず未だ線に乗ったことがなく」、しかもそれに気がつかなかったという。

刀剣

晩年には刀剣を愛したようだが、「私にはわかりませぬから良刀があったか知らぬが数は大分あったようです」といっている。陛下に御献上されたとき、刀剣の鑑識ある田中光顕がその中から六本程選んだというから、良刀もあったのだろうと述べている。

骨董品

伊藤は金ができたとき、西園寺に骨董品を買いたいと言った。このとき「出入の骨董屋を呼んでありもしない金で贋物をつかませらるるような、西園寺式でやった」のだが、伊藤は二人を捕まえて、怪しいものを売りはしまい、と訊いたという。そこで西園寺は、「それはお互い望む所であるがそうは行かぬ」と言うと、「そんなものかい」と伊藤は言った。このように鈍根なところがあったという。

囲碁

囲碁も好きで、しきりに碁を打ったのだが、「これもやはり鈍根の方」だった。それで”待った”が多かったそうだ。

私は碁はまるで知らんので、是非私に教えてやると云われて伊藤に幾目か置いてやると、あまりに長くって後にはくたびれて嫌になって堪らぬのです。それで教えている人を捕まえて待ってくれと言う。これだけは是非待ってくれと、まるで子供のように言ったものです。