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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

伊藤博文の政治家としての一面——西園寺公望談

明治時代

『園公秘話』の付録として掲載されている「西園寺公の伊藤公観」から。これは大正3年に西園寺公望が、高橋義雄(茶人・高橋箒庵)に語ったことを速記したもので、それから20年以上秘蔵されていたが、遺言により西園寺を研究していた安藤徳器に托されたものだという。安藤曰く、「一代の元老、明治の元勲を語る貴重なる資料であり、天下第一等の文献であろう」とのことである。

 

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伊藤の印象

西園寺が伊藤の名を初めて耳にしたのは、戊辰戦争のときだったという。鎮撫総督として山陰道に出征した帰路、「伊藤という人が神戸か何処かへ居ったという事を聞いたくらい」のことで、

私は大久保と非常に懇意であったが大久保が伊藤を大変引き立てておったということで、これは大久保の日記にも遺っておりますが、私は木戸とも懇意だし大久保とも懇意であったけれども伊藤が偉い人とは知らなかった。

と打ち明けている。

 

その後大久保の推薦で洋行することになり、伊藤という人は「外国の公使に自身で通弁した偉い人だと」聞き、「吉田松陰の門人であると」知る。

そして明治4年、パリで伊藤と初めて会ったのだが、このときは「黙礼しただけで話も何もしなかった」とのことである。 

帰朝後

あまり感服しなかった

西園寺は明治13年に帰朝した。帰朝した西園寺は、伊藤の話や意見を聞きたいと思い、日下義雄とともに訪問する。

 ところがその話が一向面白くない。日下がおっては面白くないと考えたのか知らんが一向に迎合しないのです。私も西洋の話をしても先方に徹底しておらぬように思ったのです。それで雑談位で何のこともなくあまり感服しなかった。

伊藤に感心する

伊藤と親しくなったのは、憲法取調のためヨーロッパにむかったときだった。船中で伊藤と打ち解け、その後ヨーロッパに着いてから経綸や精神を語りだしたという。

 伊藤が憲法取調のため外国へ行くというので私も行くことになって、そのときはじめて伊藤と雑談もしたり又船のなかでも面白い話をするようになったのです。あまり真面目な話もすることなくしてエジプトへ着きました。それから欧州へ入ってベルリン、ウィーン、ブダペストへ一緒に行きましたがその汽車の中で伊藤が初めて自分の精神を披瀝して話したが、自分が木戸に乖(そむ)いた事もこういう訳であるとか、岩倉についても前途こういう積もりであるとか、また憲法に就いても色々のことを聞かされたが、伊藤の話を聞いてみるとその経綸の順序が立っておってそのやり方には上手下手はあるかも知らんがその順序は結構だと思った。またこれだけの話の出来る人は多くあるまいと感心したのです。それから伊藤と懇親になったのですが、これが明治十五年のことです。

伊藤の経綸

 

西園寺は、「伊藤の経綸というものは皇室を尊ぶということが彼の目的」だとして、しかもその勤王の精神を国体の真髄となし、政治体制を構築していったことは伊藤の力があってできたことだと述べている。伊藤が自ら宮内大臣になって宮中改革を行い、枢密議長となって行政改革を断行したのは、次のような精神からだったと述べている。

自分が経綸を立ててその模範を示さねばならぬと考えていたので、その宮内省に向かって自ら宮内大臣となり、枢密院を作って親(みず)から議長となり、貴族院を作っても参議を作ってもいつでも自分が議長になっている。そうして自らその局に当たってこれなら大抵いけるという手本を置いて後には必要に応じて発展もし、改正してやってくれるだろうという意味でまず何でも自分でやって見て来たのであると思う。勿論その中にはやり損ない、見損ないもあったろうが、兎に角あれだけのことをやってのけたのは伊藤の経綸が宜しきを得たからであろうと思う。

しかし、いかに卓絶した経綸であろうと、いかに非凡な精神であろうと、権力がなければ改革を敢行できないものである。伊藤にはその権力があった。

伊藤が権力を得た理由

 伊藤がどうしてあれだけ権力を得て国家の政治上に志を伸ばす事が出来たか、どうしてあれ程先帝陛下の御信任を受けたかというと、これは全く大久保利通の力である。

といい、西園寺は大久保公と伊藤の政治上の関係をつぎのように述べている。

 大久保はなかなか利口な男で政治向きの事は全然伊藤に任せてどうかこうか切り盛りして居ったが大久保は世帯風の才があったと云って宜い。またごく低級の語で云えばズルかった。彼にもズルい位の智慧はあった。政治の事はほとんど伊藤に任せて居ったので伊藤はその信任を得てこれを背景としてつかへて居ったから行けたのである。

 事実はともかく、西園寺は上述のように観察している。こうした両人の関係が薩長を両立させ、そのうちの長州側の勢力が伊藤の背景となった。それに加えて、伊藤は聡明で私心がなかったので、明治天皇の御信任を得られた。よく「伊藤は純忠だ」と仰せられていたとのことである。

 

さらにあまり知られていないこととして、伊藤は明治天皇に対して「尊厳な風であって言葉でも態度でもなかなか尊重の風であ」り、明治天皇は、

「伊藤の奏上にはまず漢学の稽古からして掛からねばならぬ」と仰せられていたことを西園寺は耳にしたことがあるという。

さらに大久保が抜擢した元田永孚と懇親であったことも、明治天皇の御信任を得る一因になったと推察している。元田永孚は、明治天皇の侍講となり、宮中顧問官、枢密顧問官を歴任した人物である。米田虎雄は、「畏れながら陛下の御信用は誠に厚く、私どもの拝察し奉るところによると、前後元田ぐらい御信任を忝うしたものはあまり多くないと思っている」(『大久保利通 』)と評している。こうした背景が伊藤にあれだけの権力を与えたのだという。

 

外交を重視

伊藤が内閣のときは外交に重きを置いたことは特筆すべきことだと語る。

 政府における内外各種の事務は大抵各大臣に任せて居ったが外務のことだけは必ず自分でやっていた。これは何人が外務大臣をやっている時でもその実は伊藤が外務大臣であった西郷従道外務大臣としてやっておった時でも伊藤は外の省のことは余り構わないようであるが、外務の事は必ず自分でやるということであった。

 ときには弱腰外交だと非難を受けたこともあるが、禍根をのこすことはなく、「誠に綺麗な遣り方であった」と評している。

また、「李王世子殿下の御教育については伊藤が精神から出たことで先帝陛下の御傍近くに連れて来て」、「陛下が自分の子の如く思召して陛下の慈しみをもって感化」しなければいけないと苦心していた。これもまた、自ら局に当たって手本を示した例であったという。

 

 

 

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