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幕末維新備忘録

幕末から明治維新に関する備忘録

大山巌元帥の逸話——西村文則著『大山元帥』

西村文則氏の『大山元帥』に載せられている逸話から、現代表記に書き換え、一部要約しながら紹介したい。

 

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元帥の散歩振り

元帥は非常に散歩が好きであった。まず午前中は、自邸の木立深き間を約一時(いっとき)もあるいて、午後は茶縞背広服を着て、裏門から千駄ヶ谷、原宿の貧民長屋の辺へ散歩する。それを警護の意味で、新宿署から特派の私服巡査がみえつかくれつ後をつけるのだが、元帥の足があまりに早いので、いつも元帥の姿を見失っては、大狼狽したそうである。

元帥麻酔中の熱弁

「喜怒哀楽を顔色に出さないといえば、まず故大山元帥位の人は珍しい」とは、生前元帥に親しんでいた周囲の人々が、誰しも口にした言葉であった。しかしその実元帥はあんな人でいて、憂国の至情においては人一倍熱のあった人だった。その証拠には、こんな話がある。
元帥がかつて沼津から帰りの汽車中で洗面をしたとき、不幸にもその水の中に含まれていた病毒のために、もう20分も手遅れになったら、両眼とも明を失するところだったと後で医者にいわれたほど、ひどい眼疾を患って大手術を受けた。そのとき麻酔剤にかかった元帥は、あの黙々たる平素にも似ず、どうした訳か、滔々懸河の熱弁を振るい始めた。その内容がいかなる事柄であったかというと、それは他でもない、条約改正に対する慷慨悲憤だったということである。

トランプで所有権処分

大山公と西郷従道侯と共同で、西那須野の大原野を買って開墾させた。20年経つと、お互いに顔の皺が深くなったのに気がついて、今のうちに所有の区域を明らかにして置こうとなった。区域を決める当日、一門を集め、大山公西郷侯は斎戒沐浴して祖先の位牌を前に相対する。地図に線を引き、トランプのハートとクラブの印をつけて置いてあり、二人は裏返してあるトランプを一枚ずつ引き、無雑作に所有権を片づけてしまった。

伊藤公の大山観

伊藤博文公が維新の先輩を呼ぶ言葉は、大抵一定していた。大久保卿のことは「大久保公」といい、大西郷のことは「西郷翁」と呼んでいた。そうして西郷従道侯のことは「西郷西郷」と呼び捨てにしていたが、あるときこんなことを言ったという。
「西郷翁は人を知って任せるし、大山は人を見て任せる。どっちも偉い」

敵前余裕綽々

日露戦争の当時、奉天の軍司令部にあって強敵がすぐ目の前に隙を窺っているうちにありながら、元帥平然たるもので、ある夜などは満州でよく見かける毒虫蝎(サソリ)というのが出ると、元帥自身一生懸命それを追い回し、捕まえては空き瓶に入れ、翌朝それを机に置いて、司令部員に見せながら、
「ほうら昨夜こいつを捕らえたわい」と大笑いされたことがある。大敵を前にして悠然たる元帥の風格、また欽すべきではないか。

なかなかよく命中します

日清戦争当時のことだが、我軍の大砲は旧式で、敵の砲台攻撃に対して威力がない。幕僚連大いに焦っていると、元帥はいたって澄ましたもの、敵の白玉山砲台から発射する白煙があがるごとに、「なかなかよく命中しますな」と。

元帥怫然色をなす

何事にも怒らないので有名な大山元帥が日清戦争中ただ一度怒ったことがある。
元帥が第二軍司令官として旅順を陥落させた時のこと、一海軍佐官が悦びのあまり酔っ払って司令部に入り来たり、元帥を相手に盛んにメートルを上げた。すると元帥は怫然色をなして、
「人の仕事を邪魔してはいけません。伊東(祐亨)さんにいいつけますぞ」
その叱り方がいかにも子供に対するようなので、幕僚連が思わず失笑したと依田少将は語る。

捕虜を客扱いした元帥

日露戦争の間際、いよいよ宣戦布告となってからは参謀本部は毎日煮えかえるような騒ぎで、諸将の出入繁しく、万事会議は絶えなかったが、大山元帥は余程重大問題でなければ顔を出さず、万事児玉大将に任せて昼寝をしておったものである。元帥は至って多趣味の人で、園芸などはことにその趣味が深かった。人との交際も甚だ円満で下級の人でも一々丁寧に挨拶せられた。沙河の戦争で独普仏の観戦将校が悉く捕虜になった。そのとき各将校が、日本軍のいかなる取り扱いを受けるかを恐れて慄えあがっていると、元帥は親しく引見し、
「今日からこっちのお客だ」と待遇してやったので、いずれも大将の仁慈に感じたそうである。

桂公の観た元帥

桂(太郎)公は生前よく、「大山さんの偉いところは大山さんの下僚におった者でなければわからぬ。大山さんが参謀本部におられたとき、その下に川上操六子、児玉源太郎伯に、我輩と三人いたが、いずれも猛烈な理屈屋揃いのことだから、おりおり大議論が始まると容易に結末が着かなかった。すると大山さんがいつも仲裁役で、笑いながら貴公はこうせい、足下はああせいという風にたちどころに解決を着けられる。三人の者は何とか理屈をいってはいるものの結局唯々諾々として大山さんの云われる通りに従ったものである。それで我輩なども、大山さんの偉いところに心の底から感心しているよ」とその当時いったそうである。


歴代の大臣中最も短い演説

大山公の無口は有名なものだが、歴代の大臣中、議会で最も短い演説をしたのは元帥で、反対に最も長い演説をしたのは青木周蔵子爵であるそうな。

元帥のカラスボタン

元帥はちょっと見えると、如何にも何も構わぬように見えたけれど、人の見えないところ、ここぞと思うところへは、細心の注意を払って、よいものを用いていた。就中洋服のカラスボタンなどは軍人としては珍しいほどの凝ったものであった。

元帥とその馴染み妓昔譚

元帥が、大山弥助時代に寵愛したという、元祇園の君尾は、今年(大正年)73の老婆である。
元帥薨去の報を聞くや、涙ながらに昔語りをした。
「大山さんは明治の初め中井さんと京都木屋町の池庄や、大津の竹清で遊び、大杯でガブリガブリと呷りました。その頃のお馴染は、妾(わたし)と本願寺法主の愛妾お絹の方のお姉さんにあたる春菊という妓。涙っぽい方で、田中六兵衛さんの別荘で、宴会のあったとき、三遊亭円朝の人情話を聞いて涙を流し、果ては鼻をすすられました」

犬好きの元帥

元帥は犬が好きであった。そのはじめは無論猟犬として愛したのであろうが、晩年は単に可愛い小動物として可愛がっていたらしい。元帥歿後の淋しい隠田の閑邸には、ゴールデンセッターのオスが2匹、メスが1匹いる。オスの名は「しんべい」「くの」、メスは「みや」と名づけてある。この「みや」と「くの」のあいだに子犬が5匹生まれた。親戚に所望され、3匹を養子にやるところを、どういうものか可愛さのあまり手放しかねて、元帥歿後の今日(大正六年)まで残っているそうだ。

元帥の一番仲良し

75年の生涯中、元帥の一番仲のよかったのは西郷従道侯で、日清戦争後、京都の宿屋でズカズカと西郷さんの部屋にとおり、「居よっか」といって、スーッと入る。戦争中の長い物語でもあるかと思うと、そうではなく、二人ともゴロリと横になって、下らない話をされて、「ヤアまた」と別れられたことがある。

捨松夫人と元帥

元帥が捨松夫人を娶ったのは、大警視の頃だった。この縁談では体重が半分に減ったほど気を揉んだ。捨松夫人は、当時の小警視山川氏の娘で、津田梅子女史らとともに日本最初の婦人洋行者であるばかりか、ニューヨークのヴァッサー大学卒業した立派な女性だった。ものには拘らない元帥が、一度捨松さんを見てからは、怏々として楽しまざる日を送っている。そこで人を介して結婚を申しこんだが、見事にはねられてしまった(会津出身の山川家にとって、薩摩出身の者は仇敵であった)。
しかし元帥は決してそのまま引き下がるような人ではない。幾度も幾度も人をつかって交渉した結果、ついにその熱心が山川氏の心を動かして、捨松さんを貰うようになった。このときばかりは、元帥も天を拝して感謝したという。

元帥と梅干の種

日露役の満州の陣中で、ある会戦のとき、元帥は幕僚連と一緒に梅干の握飯を食べていた。幕僚等は、梅干の種を口から吐き出した。同じように元帥も吐き出そうとしたが、再び口の中に入れた。
「兵士等はこれまで食べているそうだ」といって左右を顧みたそうだ。

有栖川宮と元帥

大山元帥は十日に薨去して、十七日が国葬と決した。有栖川宮殿下は、大正二年七月の元帥と同じ日の十日に薨去遊ばされ、同じ十七日に国葬儀が行われた。殿下の御風格を欽仰していた元帥が、同じ日に薨じ、同日に国葬になるというのは、何という奇縁であろう。

桐野利秋の情誼

桐野利秋と元帥は昔から無二の親友であった。然るに一方は朝敵になって城山に籠城する。元帥は寄手の軍にいて、城山を攻めるという立場になった。このとき元帥の陣中で、怪しい男を捕らえたから訊問すると、桐野が元帥へ消息すべく特に遣わした密使であった。その手紙を披いてみると、
 莫逆の情誼を忘れんとして能わず。今運尽きて死するに臨み、いささか留めて記念とす。
そうして紙幣百五十円と金側懐中時計が包まれていた。勇猛鬼を欺く元帥も、これを見て覚えず潸然たるもの多時、桐野の情誼に感服したそうである。